Global Debate WISDOM「大学改革 グローバル競争は何をもたらすか」を見ました。(後編)

前編から続く

大学入試のあり方について

(ピーターサム)アメリカの大学入試においては入試得点が高いだけでは不十分であり、良い学校に行く場合には高得点に加えて自らを差別化することが必要である。大学の文化や入学後の生活など大学が期待していることに沿えるのか、性格や様々な情報をもとに大学は学生を選別していくことになる。TOP大学の場合、得点だけでは80%以上の志願者が合格するため、それ以上のことを求めて大学にマッチする人材を探そうとしている。

(デレジウィッツ)理論的にはそのような選抜は合っているが、結局チェックボックスをチェックしているだけになってしまう。大学が欲しいと言っているような理由書を書けるのかということになっており、本来のクリエイティビティやリーダーシップを発揮できるかということはわからない。あまりに受験生が忙しい状況に置かれている。選抜方法の意図は良いが、結果としてそのようになってしまっている。

(イム)韓国では日本と同様に書面テストから多面的な評価にシフトしている。日本と同様に韓国の入学試験の競争も激しいものであり、現時点ではまだ多面的な評価方法が成功したとは言えない状況にある。

(ボレール)フランスでは全く異なる入試システムがあり、バカロレアを取れば大学に入学できる。フランスとアメリカでは考え方は全く違う。大学が有料制になることに対する学生のデモも起こっている。

(吉田)知識偏重な入試という現象が大学の現場で本当に起こっているのか。各大学ではすでに多様な入試が行われており、その結果として十分な学力がない学生も入学するようになっている。学力の問題を全く抜きにして多面的な評価の話をすることはできない。また、面接による判断は面接者の主観が入るため、受験生と面接者の相性により有利不利が発生する。面接がはたしてどこまで有効な基準になるのか。さらに、受験生の人数も多く、一人一人十分に判断できるまでに面接ができるのかどうかわからない。

(城)今の多面的な評価という話の背景には、入試という一つの枠にはめることにより別の可能性を潰していることを危惧している問題意識があるのだろうと思う。ただ、多面的な入試を行ったとしても、結局また「多面的な」という枠にはめてしまうことになる。学力枠に加え、面接枠など多様な選考ステップ、入り口がたくさんあることを維持することが大切。どのような枠が適切なのかを判断するのは、大学自身である。

大学入試における平等性について

(ピーターサム)入試競争はますます激化し、富裕層はそれに対応している。ただ、入試合格者は必ずしも恵まれた環境のみではなく、富裕層が有利になるわけではない。課外活動は重要であるが、その本当の目的は若い志願者に発達を促すということである。世の中の見方や自分の立ち位置を知ることは、必ずしもお金がかかるわけではない。

(デレジウィッツ)その意見には反対である。今の入試制度は、富裕層に様々なチャンスを提供しているが、貧しい人々には不利になっている。多面的な評価とはもともとアイビーリーグアングロサクソン系が少ないことから始められたが、現在は多文化主義の発達を促しているにも関わらず富裕層の子ども達がたくさん入学している。唯一の解決策は、公立学校に資金をきちんと提供することである。かつてはアメリカの州立大学の学費は無料だったこともあり、公教育のことをもう一度考える必要がある。人間とは市民であり、市民とは平等で対等な社会のメンバーであるはずである。

(イム)韓国でも他国と同様に、エリート大学に入学させたいという関心が高まっている。アメリカではかつては入試競争は激しくなかったが、最近はアジア諸国のように競争が激化している。これは経済の影響であり、塾に行かせられるような層が有利になる。韓国では家庭教師をつけることが普通になっており、金銭的な負担は増加している。教育に投資しやすい層がエリート大学に入りやすくなっている。

(城)大学には入試よりも卒業をきっちり見定めてほしい。本来は、入学方法を入試コンサルタントに聞く社会ではなく、自分に足らないものやその伸ばし方を大学の先生に聞く社会が正しい。大学の中身で白黒を判定してもらうことが、長期的に見れば産業界のニーズに応えることになる。有名小中高校は文化的な資本の積み重ねがある家庭の子息が多く、公立校の共通の筆記試験は国民の受け皿になっているという見方もできる。多面的評価と筆記と、両方並立で良い。

高等教育支出について

(デレジウィッツ)アメリカでは昔から平等な社会を作る努力はしてきており、その結果として大きな中間層が生まれた。しかし、40年前から新自由主義が台頭し、人間インフラに対する投資を止めてしまった。その結果、不平等性が高まり、社会的流動性が低下した。特に教育機関に対する貧富の格差が拡大しており、社会的不安が高まっている。富裕層に対しもっと課税をすべきであり、公的高等教育のみならず公的初等中等教育に対しても投資をしていく必要がある。誰もが平等の機会を持つべきである。

(ボレール)どういう原則をもとに教育を行うのか、大学を作るのかということが重要である。フランスでは、国として機会の均等を提供している。バカロレアにより自由に大学に入学できるが、それは同時に問題を生むことになる。卒業できるかどうかが問題になっていく。知の民営化により様々な階級が発生するが、フランスの考え方では移民でもなんでも機会を提供されるということが大切になっている。これは、フランスにおける国の責任として、知を民営化しないということである。

(吉田)日本では8割が私立大学であり、大学教育を受けることは受益者負担であるという考え方が昔から浸透している。機会の均等が崩れてきている中で、奨学金制度により機会の均等を維持する必要がある。どのように奨学金制度を作るかは様々な議論があるが、なんらかの財政的な支援は不可欠である。

グローバル化時代にふさわしい大学や人材輩出について

(イム)高等教育グローバル化は、雇用主がグローバル能力を要求していること、外国人社員の採用競争が激化していることという二つの側面から考えられる。英語のスキルを身につけるという側面、世界中のリクルート競争に勝たなければならないという側面から、大学のグローバル化を考えることができる。

(デレジウィッツ)グローバルの人材獲得競争を止め、個々の学生のために本当の教育をしなければならない。例えば、健全な社会を作るために市民権を教えることも大切なことである。高等教育のグローバル市場における競争をいったん忘れ、数少ない名門校の学生のみを成長させるような教育をやめるべき。各国でそれぞれの目的に応じた教育をすべきではあるが、各国では政治的な不満が噴出しているとともに数少ない富裕層のためだけの教育に対してもみんなが怒っていると感じている。それは高等教育にも当てはまる。

(ピーターサム)企業のニーズも気にしなければならない。産業があってこそ教育部門がある。エリート大学にしても多様性を重視しており、所得層ごとの金銭的な支援も行っている。実際に訪問してみると、様々な人間がキャンパス内を歩いていることがわかる。だいたい正しい方向にいっていると思う。

(ボレール)フランスはボローニャプロセスが導入されているが、それは反民主的な決定で選ばれたものであり、グローバリゼーションとも結びつくものである。グローバリゼーションと呼ばれているものは、あがらうことのできないしょうがないものと考えられているが、実際は単なるアメリカ化にすぎない。アメリカの制度を皆で導入しようとするものであり、競争と不平等、理工系教育の支配化を発生させるものである。イデオロギーについて考えないといけない。

(城)グローバル社会に必要な人材とは柔軟に変化していける人材であり、大学はその柔軟な変化を手助けできる学びの場であるべきである。大学とは社会の鏡であり、大学に何か問題があるときは多くの場合社会の側にも問題がある。大学に外国人教員や留学生が少ないという問題があるのであれば、企業なり社会にも同じような体質があるはずだ。大学に変われというのは重要だが、日本の社会や企業の側も同じように変わるべきである。

(吉田)大学は競争のために存在しているわけではなく、次世代を支える人材を育成する場、次世代の人類のための知を生産する場である。グローバルとは競争ではなく共存であり、世界に存在する様々な問題を知恵を集めて解いていく場所こそが大学である。

所感

 なんらか生み出すような場ではないため提案に対する現実との差異はぼちぼちと感じたところですが、このように各国の状況をもとに有識者が語り合うというのはやはり良いなと再確認しました。特に、ボレールさんがおっしゃっていたフランスの高等教育事情は先月RIHEにて伺った大場先生の講義内容と関連しており、勉強した知識が接続される喜びを感じ嬉しくなりました。たとえ耳学問であったとしても、すぐにoutputしないinputを継続することも自分には合っているなと思っています。