文章を書くときに気を付けているたった一つの簡単なこと。

 以前弊BLOGでは公文書の書き方について言及しましたが、当該エントリーには未だにアクセスをいただいています。私と同じように、公文書の書き方に苦慮している方も少なくないのでしょう。そこで本エントリーでは、日頃私が文章を書くときに気を付けていることについてお話しします。それはたった一つ、しかも誰でもすぐに意識できることなんです。

「A、B、C。」という文章構造ならば「A、C。」としても意味が通じること

 これだけです。

 これはどういうことなのか、弊BLOGのエントリーを使って解説していきます。

  • 弊BLOGでは自分が参加した一部のセミナーやシンポジウムなどの会議録を掲載しています。
  • 会議録を作って公表していると、自分自身の中の知識が再構成されていくのを感じます。

 原則として、文章は"1sentence,1meaning"であるべきだと考えます。前回のエントリー内にあるこの二つの文章は読点が0もしくは1個であり、文意を伝える上ではあまり技術を要しません。サラッと書いてしまっても意味は通じます。問題は、読点が増えて文章構造が複雑化した場合です。

  1. 会議やシンポジウムの記録は、当時の発言や考えを留め、後からその理解を呼び起こすのにとても役立ちます。
  2. さて、リアルタイムでこのようなことをやっていると、講演者の話と自分が過去に聞いた話や読んだ本などの情報とがリンクし、自分の中の知識体系が再構成されていくのを感じます。

 この二つの文章は読点が2もしくは3個であり、前述の例示に比べ文章構造が複雑化しています。このような場合には、ちゃんと文意が通じる構造になっているか確認が必要です。確認の手段として、冒頭で示した「「A、B、C。」という文章構造ならば、「A、C。」としても意味が通じること。」を用いています。

 例えば、1.の文章から中段部を除いた「会議やシンポジウムの記録は、後からその理解を呼び起こすのにとても役立ちます。」としても、文意が通じます。同じように、2.の文章から中段部を除いた「さて、リアルタイムでこのようなことをやっていると、自分の中の知識体系が再構成されていくのを感じます。」としても、文意が通じますね。なお、「さて」や「しかし」など意味を持たない文節は除外して考えています。

 中段部が多い構造、例えば「A、B、C、D。」や「A、B、C、D、E。」の場合は、中段部が1つもしくは複数除かれても文意が通じるかという点を確認します。極端に言えば、「A、D。」「A、E。」としても文意が通じるかということですね。(そもそも、中段部が多い文章自体あまり良いものとは思いませんが。。。)

 悪い例も挙げましょう。

官邸や内閣府系の会議録を見ると、どうも「コーポレートガバナンス」に寄っている感がありますが、文科省系の会議において「ユニバーシティガバナンス」の構築に向けた検討を行ってほしいなと思っているところです。

 これは、弊BLOG開設当初に書いたエントリーの一部です。上記文章から中段部を除くと、「官邸や内閣府系の会議録を見ると、文科省系の会議において「ユニバーシティガバナンス」の構築に向けた検討を行ってほしいなと思っているところです。」と文意が若干不明確になります。この文章はあまり良い文章だとは言えませんね。

 訂正するならば、「官邸や内閣府系の会議録を見るとどうも「コーポレートガバナンス」に寄っている感がありますが、文科省系の会議において「ユニバーシティガバナンス」の構築に向けた検討を行ってほしいなと思っているところです。」と読点を削除するか、「官邸や内閣府系の会議録を見ると、どうも「コーポレートガバナンス」に寄っている感があります。せめて文科省系の会議においては、「ユニバーシティガバナンス」の構築に向けた検討を行ってほしいなと思っているところです。」と2文構成にします。

 このように読点を用いて文意を確認する方法には欠点もあります。読点を意識した文章構成になるため、読点が多くなる傾向にあるということです。過去の自分のエントリーを見直していても、読点が多すぎると感じることがままあります。全文入力後の推敲段階である程度読点を整理しているのですが、推敲の閾値やレベルが不十分なのでしょう。読点の打ち方にはまだまだトレーニングが必要だと感じています。

 本エントリーで示した観点はあくまで構造を判定することのみであり、わかりやすい文章を書くためには他にも考えないといけないことがあります。その上で、自分が作った文章が他者から見てわかりやすいものになっているのか、客観的に判定できる基準があったほうがいいなと思ってきました。本エントリーで示した観点はその一助になると考えています。