会議録は自分を再構成する。
弊BLOGでは自分が参加した一部のセミナーやシンポジウムなどの会議録を掲載しています。最近ですと以下の記事ですね。
- RIHE公開セミナー「大学における学習」に参加してきました。その1
- 日本学術会議公開シンポジウム「人文・社会科学と大学のゆくえ」に参加してきました。
- 高等教育シンポジウム2015「今問いなおす、高等教育システム-職業教育と大学、求められる人材像-」に参加してきました。
会議録を作って公表していると、自分自身の中の知識が再構成されていくのを感じます。今回は会議録作成の効用についてお話しします。
会議やシンポジウムの記録は、当時の発言や考えを留め、後からその理解を呼び起こすのにとても役立ちます。会議録と言えばテープ起こしによる全文記録か箇条書きでの論点記録がパッと思い浮かびますが、あれって後から読み返す時にちょっと読みにくいんですよね。
文科省のホームページに掲載されている中教審の議事録も全文掲載であり、テープ起こし納入後に若干字句修正を加えさらに委員の確認を経たものだと思いますが、一文が長くて読みにくいこともあります。話しているものをそのまま文章にするとこんなにも読みにくいのか、と驚愕するほどです。
一方、体言止めで論点のみを箇条書きにする場合、確かにその場では内容を思い浮かべることができます。ただ、後で読み返す場合や、あるいは他人が読んだ場合、十分な文章でないのでその内容がはっきりと理解できません。やはり、きちんと主語、述語、目的語がある文章でないと、その内容を十分に伝えることができないと考えるべきなのでしょう。
そんな思いもあり、私が会議録を作成する際は、全発言を拾うことを意識しつつも、文章化したときに最初から最後まで通して読みやすいように心がけている(つもり)です。そのため会場では、登壇者の発言を聞きながら、その内容を理解し文章化しつつ、リアルタイムでノートPCに打ち込んでいます。これはなかなか大変で、ちょっとでも頭や手が止まるとあっという間に置いていかれます。終了後には打ち込んだものを整理・調整しますが、現場では打ち切れなかったものを入力するとともに、なるべく文章だけでわかるように配布資料中の数値等も追記していますね。
さて、リアルタイムでこのようなことをやっていると、講演者の話と自分が過去に聞いた話や読んだ本などの情報とがリンクし、自分の中の知識体系が再構成されていくのを感じます。あの時聞いたあの話はつまりこういうことだったんだと思ったこともありますし、過去に出席したシンポジウムでの質疑応答が思い出されたこともあります。ちょうど、先日のRIHE公開セミナーでも言われていたICEモデルのC(Connection)に該当するのでしょう。それはひとえに、会議録を作成し公表するという明確なアウトプットや今この場で作成するという知的負荷がもたらすものだろうと思います。
ただ、このやり方にも問題はあります。登壇者の発言をそのまま記載するのではなく自分の理解の上で作成するため、結局は現在の自分の理解+α程度の文章にしかならないということです。事実、弊BLOGに掲載している会議録の中には、うまく理解が整理できなかったためカットした部分もあります。これについては、自分自身の理解できる範囲を広めていくということ、また論点として重要な部分は原文のままで掲載するということで対応しています。そもそも、基本的には興味があるシンポジウムにしか参加しませんし、その分野ではある程度基礎知識があるため、なんとか対応可能かなと思っています。
最近では、とにかくDocumentを残さないと意味がないと考え、職務において文書や資料などを作ることを意識しています。誰に頼まれたわけではなく、場合によっては誰かに見せるわけでもありませんが、どのような経緯でどのような状況でどのような論点でどのような考えを持っていたのか、それぞれの活動について自分の考えを整理し記しておくことで、根拠となるものを確実に残して他者に伝えられるようにしています。弊BLOGの会議録もDocument作成のトレー二ングの一環となっていますね。
このようなことを続けていると、ありがたいことに、文章や資料、話が整理されていてわかりやすいと言われることが増えてきました。自分の知識を再構成するような文章作成は確実に効用があるんだろうと考えています。