教育・働き方改善省を作れば良い

 新しい職場で日々プレッシャーを受けつつ圧倒的成長を果たしております。

 文部科学省の方の講演を聴く機会もそこそこあり、もちろん内容もしっかり聞いているのですが、同時に「これは概算要求のあの部分かな」とか「このポンチ絵はあの資料に載っていたな」とか余計なことも考えています。最近は特に「教育を良くするだけでは社会は良くならないよな」と感じることが多いです。

 文科省のスライドは大抵一枚もので完結していることが多いため、さもその中で完結するかのように見えてしまいます。だからこそ、単独の政策スライドをただ並べただけでは、一体何が問題の原因なのかが非常に分かりにくくなりますね。いくら「教育最高!教育万歳!教育ですべて良くなる!教育のためなら死ねる!」と言っても、特に若年者や中年者にとっては教育を受けた後の働き方や生き方が大切ですし、それが国の発展にもつながるのでしょう。文科省のスライドからでは、教育を受けた者を受け入れる社会の姿がよく見えてこず、だからこそ「教育を良くするだけでは社会は良くならないよな」と感じるわけです。

 以前のエントリでも言及した通り、社会において大卒者はまだマイノリティであり、生産年齢においても大卒者が多く流入してきたのはそれほど古い話ではないでしょう。以前の働き方のまま教育だけ変化しても、教育と働き方がうまくマッチしないということは容易に想像がつきます。「だから大学進学率を下げろ」と言っているわけではなく、教育と合わせて、働き方も改革して(あまり好きな言葉ではありませんが)生産性も高めていきましょうということです。なので、文部科学省の教育行政と厚生労働省の職業能力開発行政、ついでに労働行政の一部を引っ付けて教育・働き方改善省(名称適当)を作り、教育から職業、働き方まで横断的に対応できれば良いんじゃないですかね、と思っています。

 文部科学大臣馳浩ということで、縦割り行政にもノーザンライトスープレックスを喰らわせてほしいですね。

 念のため、ネタエントリです。あしからず。

社会における大学生観と大学観のギャップ

 先日、職場の友人を食事をしていた際の話です。最近の大学関係の事柄にも話が及び、千葉大学の件など、大学と社会との関係性も改めて考えると多様な論点があるよねと話していました。その時に、ふと思ったのが、世間のイメージと大学の実態に齟齬があるというのは従前から言われていることですが、多くの人が持っている大学生に対するイメージ(大学生観)と大学に対するイメージ(大学観)も必ずしもマッチしていないのではないかということです。

 社会の多くの人が持っている大学生のイメージというと遊んでいるとか、チャラいとかそういったものだと推測できます。若干変化はあるのかもしれませんが、このイメージって随分前から大筋では変わっていないように感じます。

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(出典:統計局ホームページ/国勢調査からわかったこと

 平成22年度の国勢調査の結果では、15歳以上人口に占める最終卒業学校が大学・大学院の者の割合は約20%です。多くの方は自身が大学生になったことはなく、大学生観には実感というよりはイメージで語っていることが多く反映されていると推測されます。特に、一時期は”大学のレジャーランド化”と言われるような状況であったとも聞きますし、一度ついた悪いイメージはなかなか払拭できないのかもしれません。(余談ですが、大卒者が20%しかないことに改めて驚きました。大学にいると周りが大卒者ばかりであるため、このあたりのギャップは留意していきたいですね。)

 一方、社会の大学に対するイメージは教育機関や研究機関と色々ありますが、特に教育機関としては学校として捉えられることが多いと考えられます。その際、この学校とは小中高等学校と同じような”学生を管理・指導する機関”として捉えられることが多いのかもしれないと思っています。

 学校教育法第1条にもある通り、確かに大学は学校です。ただ、学習指導要領の有無など、その性質は小中高等学校と大きく異なります。にも関わらず、前述の通り、多くの人が大学の教育機関としての性質を実感していませんので、学校と言えば小中高等学校のイメージが大きく影響すると推測できます。概ね悪いことの方がよく覚えてるということで、小中高等学校の教育で感じた管理的側面を大学観に投影しているのかもしれません。

 社会の大学に対するイメージの中には、(良くも悪くも)自由な存在としての大学生観と管理的な学校としての大学観が同時に存在し、その都度都合の良い方が打ち出されているのかもしれません。この二つは明らかに矛盾するものであり、大学と社会との思いのすれ違いなど色々と不幸なことを生じやすい一因となりうるとぼんやりと考えています。だからどうだとか、だからどうするということもないのですが。

 また、ここまで書いてきてなんですが、一口に「社会」とか「世間」と言い切ることは慎重にならないといけないということも改めて感じました。”おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ”ではありませんが、社会が大学が誤解すると同時に大学もまた社会を誤解している可能性があることに気をつけないといけませんね。

わからないということを開き直る。

 初めて関わる業務ということもあり、異動してから本当に仕事がわからなくなりました。特に、何をすれば良いのかではなく、どのように処理をすれば良いのかもわからないため、取りこぼしはないかといつもヒヤヒヤしながら事務処理をしています。そんな中、意識しているのは、わからないということを開き直りながら仕事をするということです。

 開き直るといっても逆ギレするのではなく、わからないことが多い自分を受け入れ、謙虚に聞いて回るということですね。ある程度まで調べ、自分がわかっていないことは何なのかを明確にしてから、直接訪問し話を聞いています(よく知っている人ならば、さっと電話することもありますが。。。)。わからないながらも早め早めに動かなければドツボにはまると思い、とりあえずフットワーク軽く動きまわり聞き回っています。

 性格もあるのでしょうが、結構これってためらうことがあったり、ストレス溜まることがあったりするんですよね。そこは「開き直る」というマインド転換とランニングというストレス解消手段でなんとか自分をのせているところです。

 あとは、直属の上司(と言っても併任ですが。。。)にこまめに状況の報告や相談をすることにも気をつけています。何らかトラブルがあった際に押し付けられるカバーしてもらえる程度にはリスクをヘッジしていきたいです。

 仕事の中で知っていること、できることが増える喜びを感じており、それを踏まえ、また新しいことに挑戦できるという良いサイクルが自分の中でできていると感じています。大きなことを言えば、これがOJTや能力開発の本質でもあるのかもしれませんね。知らないことではなく知ろうとしないことが罪であるという思いを胸に、前に進んでいきたいです。

 
 
 

何もない状況から業務を引き継ぐということ

 異動後の仕事がわけわからなさすぎて、逆に1周して面白くなっています。

 異動した先の仕事が全く経験のない場合、まずは前任者等が作った引継書に沿って対応しましょうということになりますよね。けど、引継書が不十分な場合やそもそもない場合もあり得るでしょう。周りもそんなに頼りにならず、指導してくれる上司もいない、前任者もどこに行ったのかわからない、そんな時に取るべき行動は1年前の前任者の行動をまねることだと思っています。

 1年前の書類の動きを確認する、1年前のメール送信履歴を確認する、これらを踏まえ行動することで、なんとかゼロからのスタートを少しづつ進めていけます。かっこよく言うと守破離の「守」でしょうか。これを拡張し、1ヶ月のメールの送信履歴、1年間の書類の動きを確認すれば、なんとなく今後の動きも見えてきます。まさに今私が(必要に迫られて)実践していることです。

 業務の理念や構造も大切なのですが、異動者にとってもっとも大切なことは「当座何をするか」だと考えています。引継書に加え、1週間以内に行うべきこと、2週間以内に行うべきこと、1ヶ月以内に行うべきことをしっかり示し、前述のように過去の行動を参照できる環境を整えることで、とりあえずはなんとか業務を引き継げることができるんでしょうね。

結局は、心持ちである。

 弊BLOGは結構前向きな感じで書いているのですが、実際にはそんなことばかりではなく、面倒なことや理不尽なことも多々感じているわけです。職場の友人と話していても、わかってくれない上司がいたり、対応が悪いカウンターパートがいたりということは、程度の差はあれどこも同じように感じます。政局を見ていても、国立大学法人の未来も、そんなに明るいものではないのかもしれません。

 そんな中で前向きに仕事をするのは、結局は自分の心持ち次第なのかなと思っています。思いがなければ行動はできません。思いを持って、自分が行動できる範囲や影響を与えられる範囲をイメージし、他人にどう見られているのかをコントロールして、感情を価値観に寄せて、想像できる範囲でのベストを考えることを意識しています。特に、取り返しがつかないサンクコストや機会損失はどうしようもないことなので、あまり深く考えないようにしていますね。

 仕事ってやりやすいなと思うのは、各職業・各組織ごとの価値観の軸は実は意外とそれほど多くないことです。価値観の軸を踏まえて、思いや感情、考えを整理していけば、なんとなくある程度のところまでは他者と動けるのではないかと思っています。(いつもうまくいくわけではありませんが。。。)

 もちろん、こういった心持ちは自分の中だけのものですので、他者に押し付けるわけにはいきません。自分の中の心持ちを保ち、自分や他者が良い仕事や良い人生を送れるように、条件や環境を求めていくことになるのでしょう。その中で、賛同してくれる人が現れたり、取組が報われたり、

 心持ちを保つためには、仕事以外の場面において、自分への負荷と解放のバランスを取る必要があると考えています。私の場合は、ランニングであったり学外でのワークショップの企画運営であったり音楽であったり料理であったり読書であったりしますね。

 私の心の中には、だいぶ前に読んだ漫画のフレーズでずっと覚えているものがあります。もはやストーリーを全く覚えていないのですが、このフレーズはとても印象深く、行動方針の一部になっているくらいです。最後にそれを紹介します。

人生はいつも準備不足の連続だ 常に手持ちの材料で前へ進む癖を身につけておくがいい (魔法先生ネギま!第11巻)

あらゆる局面において重要となるのは、不安定な勝算に賭け不確実な未来へと自らを投げ込める自己への信頼・一足の内面的跳躍 つまり、「わずかな勇気」だ(魔法先生ネギま!第11巻)

 

論文が書けるように仕事をしたい

 以前の記事でも言及した通り、日頃の業務でも研究の作法を考えて取り組むことを意識しています。仮説を立てて方法を検討し、取り組んだ結果を明らかにしさらに改善を検討するということですね。大きな制度の話から細かい手法の話まで、なるべくいろんなことを考えて、隙あらば実践してきたいと思っています。

 それに加えて、最近は論文が書けるように仕事をしないといけないなとも思っています。論文を書くには、内容に「体系性」と「新規性」がなければいけません。この場合の体系性とは前年度までの業務手法であったり他大学の状況であったりその業務の法的全国的機関的歴史であったりし、新規性とは自分が改善しようとしていることであるわけです。これを整理した上で、IMRADのフレームワークに当てはめて考え実践すれば、いい仕事ができるのではないかと思っています。これって、IRのような大学業界で論文になりやすい業務のみならず、あらゆる業務に当てはまることですよね。だからこそ「論文が書けるよう”な”仕事をする」ではなく「論文が書けるよう”に”仕事をする」としています。

 昨年度自分が実践していることや考えていることを論文もどきにまとめて投稿したのですが、その際にどうにもうまく書けなかったのが「体系性」でした。「新規性」は自分がやったことなので書けるんですが、それを「体系性」の中に位置づけるのが苦労しました。体系的に過去の経緯を書いているうちに、自分がやったこと考えていることは果たして新規性があることなのかとどんどん疑念が湧いてきて、なかなか進まなかったことを思い出します。

 職員が書いた論文や発表を見ていても、国外も含め過去の研究や取組がうまく参照できていないのではないかと感じることはあります。この部分は費やす時間がものをいうところなので職業研究者には及ばないところもありますが、体系性がなければ新規性がわからない(自分のやっていることは新しいことなのか、効果のあることなのか)ので、過去の経緯などは追求していきたいと思っています。
なんにせよ、そのくらいちゃんと自分のやっていることや成果を説明できるくらいには考えていきたいですね。

私信:異動します。全く新しい仕事を楽しんでいきたいです。

結局、国立大学の運営費交付金はどう配分されているのか。

国立大交付金100億円、特色競わせ配分 3分類で評価:朝日新聞デジタル

国立大学の収入の3~4割を占める「運営費交付金」の配分が決まり、文部科学省が9日、発表した。2016年度からは、大学を目的別に3分類し、取り組みに応じて交付金の一部約100億円を配分する。

 平成28年度の国立大学運営費交付金の配分が話題になっています。ただ、運営費交付金全体が何割削減されるみたい誤解のある理解も目にしますので、改めてこの配分の位置付けを考えてみます。

 今回の発端となったのが、3月9日に出た文部科学省の発表です。

平成28年度における国立大学法人運営費交付金の重点支援の評価結果について:文部科学省

この度、平成28年度における国立大学法人運営費交付金の重点支援の評価結果について、別紙のとおり取りまとめましたので、公表いたします。

 ここでは、

第3期中期目標における国立大学法人運営費交付金(以下「運営費交付金」という。)については、第3期における国立大学の機能強化の方向性に応じた取組をきめ細かく支援するため、予算上、3つの枠組みを設けて重点支援を行うこととしており、各国立大学法人は、それぞれの機能強化の方向性や第3期を通じて特に取り組む内容を踏まえていずれかの枠組みを選択することとなっている。

として、

平成28年度の運営費交付金の重点支援に当たっては、重点支援の枠組みごとに、各法人から提案のあった取組構想の評価を有識者の御意見を踏まえて行った上で配分することとしており、その評価結果を公表するものである。

と書かれています。

 その結果として各大学が提案した戦略が評価され、それを踏まえ、運営費交付金の配分割合が決定されています。(配分率は下図及び下表を参照。なお、旭川医科大学は配分を要求していません。)

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 ここまで、幾つか確認が必要な言葉が出てきました。まず、「重点支援の枠組み」です。これについては、以前弊BLOGでも言及したので繰り返しませんが、簡単に言えば国立大学を第3期中期目標期間に担う主たる役割に合わせて3つに分類しそれを踏まえた運営や予算措置をしましょうということです。だからこそ、重点支援の枠組みごとに結果が公表されているのでしょう。

 次に「反映率」です。この割合により運営費交付金が増えたり減ったりするということは想像できるとは思いますが、何に反映される割合なのか、わかりにくいですね。これを平成28年度予算資料の中から読み解くには、文部科学省公表資料ではなく、財務省公表資料を見た方がわかりやすいです。

平成28年度予算政府案 : 財務省

平成28年度文教・科学技術予算のポイント P8

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 ここから、基幹運営費交付金(従来の一般運営費交付金+特別運営費交付金)の1%程度をあらかじめ拠出し、それを反映率に応じて再配分していると考えられます。ものすごく簡略化すると、図2のようであると想像できます。

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 拠出した1%程度の基幹運営費交付金に反映率を反映した金額が再配分として大学に戻ってきているというイメージですね(「戻ってくる」という表現は適切ではありませんが。。。)。これを見れば、運営費交付金全体を対象としているわけではないことがわかってもらえると思います。この考え方が正しいとすると、75.5%と一番反映率が低い京都教育大学の場合、運営費交付金が4分の3になるのではなく、拠出金のうち4分の3しか戻ってこないということになります。つまり、仮に重点支援①の拠出割合が1%だとすると、再配分後の基幹運営費交付金は本来その年度に受け取るはずだった交付金の99.75%になるということですね。(ただ、各大学の拠出金額及び再配分金額が公表されていませんので、この考え方が正しいのかは不明です。)

 私は完全に感覚が麻痺しているので、毎年1%づつ削られていたことに比べるとなんと平和なことかと思ってしまいます。ただ、平成29年度以降、財務省は再び1%づつ削減する気もあるようですので、状況は読めません。また、平成29年度以降のこのような予算制度つまり機能強化経費も、将来の基盤経費化も含め文部科学省の中で検討されていると聞いています。

 気になるのは配分された予算の使途ですね。元々配分総額が決まっており割合に応じて各大学に配分するものですから、通常の補助金にあるような予算計画などは立てにくいだろうと考えます。一方、あくまで各大学の戦略の評価に応じて配分した以上は、その戦略に関連性がないものには支出しにくいでしょう。各大学で特別事業経費みたいな枠を設け、担当部署の裁量である程度動かしていくのかなと想像しています。

 また、確かにこの方法は第3期から新たに導入されたものですが、基盤的経費を削ってプロジェクト型経費に回すという路線は継続されているように思えます。結局しばらくはこういう方向でいくのかなと改めて感じました。(それでも、毎年1%ずつ削減よりは天と地ほども違いますが。)

 平成28年度の国立大学運営費交付金について、簡単にまとめてみました。なお、裏を取ったわけではなく、諸々の資料を踏まえた私の考えのみに留まっていることを申し添えます。