「自分にしかできないこと」から「みんなにもできること」へ。

 大学職員の専門性に関する議論では、誰でもできることではなく専門性を身に付けましょうといった言説を目にします。大学職員は誰でもできる仕事です。これは恐らく間違いないでしょう。正確に言えば「誰でも」とは「一定程度の能力を持った者なら誰でも」であり、それを判定するのが採用試験等であると考えています。

 「誰でもできる」ということはネガティブに捉えられがちですが、世の中には「誰でもできる仕事」以外の仕事とは案外少ないのではないかと思います。ある程度経験やトレーニングを積んだらできるようになる仕事が大半であり、スタートの時期と経験年数と多少の運・能力によりある程度ならばどうとでもなります。だからこそ、大学新卒者の大半が就職できているのでしょう。誰であれ対応でき消費者は一定のサービスを享受できるというのは、日本人の基礎学力の高さ等も相まって、すばらしいことだと感じています。

 国立大学法人職員は旧来の国家公務員であり、教育行政の一端を担ってきました。だからこそ、誰でも一定の手続きをこなせば一定の成果がでるような形で業務が行われてきたのでしょう。よく言われるような専門性がない、つぶしがきかないとはこのような事情によるものと推測します。これはある意味で当然のことです。例えば市役所に書類を提出した際、同じ条件下で同じように書類を書いたにも関わらず、受付者の能力によってこの人は却下されあの人は受理されるということがあったら困りますよね。国立大学も同じように、ルールを作りそれに合わせた業務を行うことで、誰であれ一定の成果が出せるようにしてきたと推測します(もちろんこのような業務のみではなかったと思いますが。)。これはこれでとても大切なことだとも感じます。

 近年、大学に対する社会からの期待や圧力はどんどん高まっており、その是非はともかく、国立大学はそれらにある程度応えなければならない状況にあります。それらは新しい取組や資源配分への要請であり、この要請に応える場合には教職員は今までのやり方を変えるか、新しい業務が発生することになるでしょう。前述のルールに基づいた業務というのはある意味で現状維持とも言え、これと社会からの要請との剥離が大学に対する批判に結びついているとも想像できます。だからこそ、教員を支援し場合によっては先導するような存在として、職員の専門性を高めようという議論があるのだと理解しています。

 職員の専門性を高めましょうという議論や取組は大変結構だと思います。しかし、それが職員個人の専門性を高めることに留まっていてはあまり継続性がないな、とも考えています。弊BLOGでも職員の専門性については何度か言及してきましたが、一貫して「かけがえのない自分になるための専門性獲得」を批判してきました。自己研鑽の枠組みならばともかく、組織的に行われる専門性の獲得は個人のためではなく学生や教員、組織のためであるはずです。併せて、獲得した能力を活かせるような働き方の重要性についても、何度か言及してきましたね。「誰でもできること」を「自分にしかできないこと」にすることは、程度はあるにしろ、組織的な職能向上にはつながらないのではないかと考えています。

 だからこそ「自分にしかできないこと」を「みんなにもできること」にすることの大切さを感じています。例えばマニュアル化や業務手順の変更など、自分自身の持つ考えや技能をルールの中に埋め込んでいくようなことですね。暗黙知から形式知への変換に近いのかもしれません。こうすれば全体の底上げにもなりますし、自分自身もアウトプットし知識を分け与え新たな能力獲得していくサイクルができます。

 これは「守破離」に近いと考えています。

  • 守:マニュアルや慣例に基づいて業務を行う。
  • 破:新たな知識や自分なりの考え方を獲得し自分なりに業務を改善する。
  • 離:知識や技能を外化し皆が対応できるようルール化する。

 自分の中の全ての知識や技能を外化するのは不可能でしょうが、その中の一部でも共有しルール化することで自分が来る前よりも職務を高度化できる可能性があります。そのようなことを繰り返してもなお自分の中に残っているものこそが、専門性というものなのかなと漠然と考えています。

 そうは言っても、これはかなり辛いことで、たぶんなかなかうまくいかないだろうなとも思っています。独占していた知識技能を公知化することになるため、一時的に自分の価値を下げることになり、モチベーションが高まらないことが想像できます。よっぽど組織的なインセンティブを準備しないことには、個人の思いのみに頼ることになるでしょうね。裏取りしていないのであくまで噂レベルですが、立命館大学の職員業務評価では他者との連携した業務も評価の要素としてしていると聞いたことがあります。これが事実かはわかりませんが、このようなやり方も一つのインセンティブだろうと思います。また、この手法はどうしても手段の伝播が先行するため、業務の本質や目的性ということが伝わりにくくなりがちです。このあたりも考えていかないといけない点ですね。

 今回の記事はちょっと組織依存に寄りすぎだなと自己批判的にも見ており、個人と組織との関係という問題も喚起されるところです。個人的には、組織の目標達成のために個人の力の一部分を貸すという姿勢が健全であり、あまり組織組織言っても仕方ないかなとも思っています。組織というよりも、(自分も含め)そこにいる人たちが幸せになるためにどのようなことをできるのかということなのでしょう。

 ここに書いたことは私自身の今年一年間の課題でもあります。なかなかうまくいっていないのが現状ですが、自分が異動した後にもより良い業務ができるように、力を入れてやっているところです。そんな中、文部科学教育通信No.370に書かれた清水元文部科学事務次官の言葉には大変励まされました。最後にそれを紹介します。

結局、制度設計というのは、しょせん調整の産物なんですよね。だからベストの制度というものは無いから、常によりベターであるかどうかという点検は必要で、今の制度だって課題を残している。よりましな制度にできるかできないかということが問題で、きちんと何か問題で何が課題で、その改善のための選択肢にどんなものがあるのかということを、(中略)関係者が常に共有するということが一番大事じゃないかなと。(P14)