国立大学法人職員の日常に思う ~違和感とその正体~

「人が減ったのに仕事は減らない……」国立大学法人化が変えてしまった大学職員の日常|変わりゆく大学のいま~激流の中で みわよしこ|ダイヤモンド・オンライン

 今回は、東京大学・数理科学研究科図書室に勤務する一人の図書館司書の日常と業務を中心に、「国立大学法人化」とは何なのかを紹介したい。

 ダイアモンド・オンラインに国立大学職員に関する記事が出ていました。職員の実情という題材で取り上げられるのは珍しく、興味深く読んでいたのですが、どうにも落ち着かないところがありました。何が引っかかったのか、ちょっと整理してみます。

 まず、前提として、この記事に書かれた「人が減ったのに仕事は減らない」というのは事実であろうと思います。なお、当該記事は図書系職員に関するものですが、事務職員については以前弊BLOG記事(学校基本調査に思う 〜国立大学の事務職員は減っているのか?〜 - 大学職員の書き散らかしBLOG)で以下のとおりまとめています。

  • 事務職員は減っていない。
  • これまでになかった内容の業務は増えている。
  • そのため、一人当たりの平均担当業務量が増加し、事務職員が減ったように感じている。

 その上で、記事を読み返してみたところ、違和感の正体は以下の3点だと思い当たりました。

1.仕事が減らない理由は何なのか?

 大学法人化が、人件費削減につながっている側面は否めない。「そうなんです。人は減るけど、仕事は減らないんです。すると、ゆとりが減ります」そのゆとりは、業務に必要なゆとりでもある。そのことを主張したこともある。すると「民間に業務を出せばいいじゃないか」と言われたこともある。「でも、民間委託すると、かえって高くつくはずなんですよね。現在の人件費を増やさずに出来ることではないです」

 「人が減ったのに仕事は減らない」という前提に立つと、記事中には「人が減る」理由は明らかになっていますが、「仕事は減らせない」理由が書かれていません。むしろ、仕事を減らすように提案された(ように見える)ことに対し、反論しています。(この反論も根拠不明ですので、適切な反論なのかは判断できません。)

 仕事を減らすとサービスの質・量が低下するという意見もあるのではないかと思います。わかります。ただ、それはいつでも成立するのでしょうか。確かに、マクロ的視点でみると、業務量・労働投入量とサービスの質・量は、一方が増加すればもう一方も増加する傾向にあるでしょう。しかし、ミクロ的視点、例えば今回のような1ユニットの業務で見れば、必ずしもそうではない場合もあるのではないでしょうか。昨今、各大学で行われている「業務改善」や「SD」は、この業務量・労働投入量とサービスの質・量の間にある係数を変化させ、より少ない業務量・労働投入量でより大きなサービスの質・量を産み出すという目的・効果もあると考えます。(下図参照)

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 人が減ったのにいままで通りの仕事のやり方では、そりゃオーバーフローになりますよね。記事中に登場する「数理科学研究科図書室長」はどの程度の職階なのか、マネジメント層なのかはわかりませんが、どのような工夫を以て部下とともに業務に臨まれていたのか、気になるところです。

2.専門性のある人材の配置理由は何なのか?

 この図書室に「人がいる」ということの意味は、何だろうか? 大学の外も含めた社会にとっては、どのような意味があるのだろうか? そう問いかけると、Aさんは首を傾げて少し考え込んだ。そして、こう答えた。「ここは、東京大学の、それも数理科学研究科の図書室です。社会に求められることの全部に、すぐに応じられるわけではありません。大学の、この研究科の図書室である以上、優先順位があります。でも、存在を広めたいと思いますし、親しまれて欲しいとも思います。求められれば、可能な範囲で、お手伝いできればと思います」

 図書室に人がいる理由を聞かれ、上記のように、図書系職員が持つ専門的能力ではない観点で回答を行っています。これには非常にがっかりしました。ポストの存在理由に専門能力が必要ないのならば、そのポストにコストが掛かる専門人材を配置する必要はなくなります。いくら外部者がポスト維持を擁護したところで、本人がこのような考えならば、擁護の意味がないですね。

 また、記事中、

利用者との協力関係を築くにあたって非常に重要なのは、図書館業務の中核をなすレファレンス(調査支援)サービスであろうと思われる。「そうなんですけど、私たちスタッフ5人は全員、数学のバックグラウンドがないんです。だから、内容についての質問には答えられないんです」

とあります。どのような質問を受けたのかは明らかではありませんが、資料の場所を教えるなどのレファレンスであれば、必ずしも数学のバックグラウンドが必要ではないのではないでしょうか。(もちろん、あった方が良いに決まってますが。)少し無茶なことを言えば、自学自習によりある程度までならば数学の知識を身につけることは可能であり、サービスの向上に繋がる可能性もあると考えます。

 日本図書館協会の「日本の図書館統計」によれば、国公私大学には、図書館の専従職員はH25で4,764人いるようです。その中で、「数学のバックグラウンドを持つ職員」はどの程度いるのでしょうか。完全にイメージのみですが、ほとんどいないのではないかと思っています。どうにも「ないものねだり」のような感じがしてしまいます。

 繰り返しますが、「内容についての質問」が何をさすか明らかではないため、具体的なサービス内容がわかりにくく、本当に数学的な質問をされた可能性もあります。それは確かに応えられないでしょうが、そもそも数学の専門家である教員が図書館職員に数学のことを聞くということは考えにくく、必要とされる資料を検索・提供・回答するというリファレンスサービスの一部である質問であった可能性もあります。そのような要望に対してどのように応えていくのかは職員の腕の見せ所であり、自分のバックグラウンドでないと仕事が全くできないというのはどうなのかと思ってしまいます。(リファレンスサービスの実態について明るくないため、見当違いの可能性もありますが。。。

 なお、大学図書館職員の能力や養成については、科学技術・学術審議会学術分科会研究環境基盤部会学術情報基盤作業部会「大学図書館の整備について(審議のまとめ)-変革する大学にあって求められる大学図書館像-」にまとめられています(2.大学図書館職員の育成・確保:文部科学省)。その他、様々な論文等で図書職員の専門性や育成について言及されています。

3.ゆとり、ムダとは何なのか?何を産み出すのか?

  「そうなんです。人は減るけど、仕事は減らないんです。すると、ゆとりが減ります」そのゆとりは、業務に必要なゆとりでもある。そのことを主張したこともある。

 ゆとりが必要という言説には、そのとおりだと思いますし、自分自身もどんなに忙しくとも心にゆとりを持とうと心がけています。私の中で持とうとしている「ゆとり」とは、チャレンジする気持ちであり、より良いもの作り出そうとする意志のことです。ただ、記事中の「ゆとり」とは何を指すのか、明らかではありません。また、「ゆとり」を自ら生み出すために、どのような取組を行ったのでしょうか。労働時間とその業務密度については、以前弊BLOG記事(業務改善のジレンマ - 大学職員の書き散らかしBLOG)でも触れました。新しいことを考えるためにも、既存の業務を圧縮するということは、つまり1.で指摘した「仕事を減らす」ということです。記事中では、「ゆとり」とはなにか、「ゆとり」から産み出されるものはなにか、ということを読み取ることができませんでした。

  「そもそも教育は、時間もお金もかかるものです。ムダも必要です」

 前述の文章と並べると、「ゆとり=ムダ」と見ることもできます。言いたいことやその必要性は実感できます。ただ、予算の半分程度税金が投入されている国立大学で、ムダも必要だと納税者に言うのは結構難しいところもあるかなとも思っています。

 極端な例えですが、公共事業で道路を作っているとしましょう。不測の事態に備え工程にゆとりを持たせるために、通常必要な人数+αで作業員を雇用し、現場では日中常に数名がたばこを吸って休憩している状態だとします。結果として、工程通りに道路ができ、余裕を使うことなく常に人が余った状態で工事が完了しました。この場合、納税者からは、+αの作業員は「ムダ」だったと判断されるでしょうか。それとも、事業に必要な「ゆとり」と判断されるでしょうか。

 極端な例えであり、大学の状況を正確に再現できていると思いませんが、税金を投入し事業を行っているという意味では、大学も公共事業も変わりありません。このような側面があるからこそ、基盤的経費である運営費交付金が政府決定で削減されているとも言えます。「ゆとり」や「ムダ」とは何のことで、それがどのようなものを産み出すのか、それを説明するのは一義的には大学であり、本記事中ではAさんであることは言うまでもありません。

 

 国立大学の状況を好転させることは言うまでもなく必要だと思っており、そのためにも予算面や運営面などの実情や成果を訴えていき、国や世論を動かすことも大切です。本記事は被害者的視点から読者の心情に訴えるように書かれているようにも感じられ、その意味では良い記事だとも思いました。ただ、あくまでそれは対外的な意味のみです。本記事中に出てくるAさんがどのようにインタビューに回答し、それがどのように編集されたのかは分かりません。ただ、少なくとも平常業務中において、記事中にあるような思いのみで業務をしているのであれば、前向きな図書職員とは言えないな、という印象を持ちました。

 少なくともあと数年は国立大学の基盤的経費の削減は続き業務量も増加するのではないか、というのが私の考える最も無難なシナリオです。(ここで言う「無難」とは、最良と最悪の間にある最も実現可能性が高いと思われるシナリオのことです。)その前提に立つと、これまで通りの分掌等に基づいた職員の在り方から、働き方の転換をする必要を感じています。それを改めて感じさせるような記事でした。