教学マネジメントには優先順位が必要である

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 文部科学省のホームページで中央教育審議会大学分科会教学マネジメント特別委員会第3回の議事録が公表されています。教学マネジメントについては、弊BLOGでも言及してきました。

教学マネジメントは広まるのか。 - 大学職員の書き散らかしBLOG

3つのポリシーは新参若手管理職のようなものである - 大学職員の書き散らかしBLOG

3つのポリシーに係る模式図の作成とそこから見えてくる課題 - 大学職員の書き散らかしBLOG

 議事録を確認しつつ、教学マネジメントにはまず何が必要なのか、考えています。

1.議事録の中で気になる発言

昨今,多くの大学で,到達目標が学生を主語にして行為動詞で書かれる,あるいは観点別に書かれるようになってきたのですが,実はそこでまた新たな問題が生起しています。それは何かと言うと,立派な到達目標がいくつか書かれているのだけれど,その一部は成績に絡んでないということが非常に多いということです。11ページにあるように,本学では,到達目標ごとにどういう評価手段でどれぐらいの比率で成績に盛り込むかということを必ずシラバスに明記することが求められています。特に大きな私立大学では,何百人もの受講生がいる授業も少なからずありますので,到達目標をそれぞれの観点で立派に書いておきながら,成績評価ではその中で一番採点しやすい知識・理解だけを穴埋め式の問題でやっているということがよくあります。本当にこういう事例は山ほどあるんですね。前回も申し上げましたけれども,そのようなことをやっていますと,成績評価が到達目標の達成度を測っていないわけですから,その上にマップ・ツリーで保証されているDPの妥当性,それからGPAへの信頼性も全部なくなるわけです。ここのところをしっかりとしておく必要があるだろうということです。

 この点は、今まで意識したことがない観点だったので率直に慧眼だなと思いました。確かにその通りなので、今後の学内の検討に生かしていきたいと思っています。

例えば学部全体で作っている3ポリシーとの関連を真面目に皆が考えているかというと,普通の教員はそういうことは考えていないような感触を持っています。また,全学から例えばナンバリングはこういうルールでやってくださいとか,成績評価を厳格化するからこうやってくださいと上から基本方針が降ってきて,そうすると学部の中の教務委員会で議論して教授会で決めていくというやり方をするんですけれども,一つ一つの手段として捉えるので,それだけが進んでいって何のためにそれをやっているのかとか,ほかのものとの関連性とか,そういったところがなく局所的に一部だけ進んで,肝心なところが余り理解されていないような印象を持っています。

 実感として、私も同じように思っています。

毎回申し上げていることですけれども,今の教育プログラムの体系は,まったく学生,学修者本位になっていない。学生が無限に可能性を持っていて,無限に時間があるかのように作られているということですね。学生の時間は無限ではありません。バイトもしているでしょうし,それからサークルもやっているでしょうし,そうすると限定された時間の中で学生たちに最高の学びをさせるためには,やっぱり幾つまでの科目が限界なのか。学生に教える科目,1週間に学生が学ぶ科目の限界値はどこか,学生たちがこういう形なら意欲を持つというものは一体,ピーク意欲を引き出すためには何なのか。 

 発言の趣旨とは異なりますが、 ”学生の時間は無限ではありません。バイトもしているでしょうし,それからサークルもやっている”からこそ、1単位45時間の学修がはたして可能なのかと思います。

今望ましいと言われているくらいの抽象度を持ったディプロマ・ポリシーでカリキュラムマップを作った場合には,私は先生方に非常に形式的でうんざりする作業を強いることになってしまうと思っています。実際,京大では,カリキュラムマップの作成はお願いしていません。教学マネジメント指針に盛り込むべき事項として,カリキュラムマップとカリキュラムツリーが併記されていますけれども,どちらも作成しなさいというようなことになると,かなり反発が出てくるのではないかと予想しております。

 この点も、教学マネジメントにかけるコストの問題と関連している気がしています。

2.教学マネジメントの確立に必要なもの

 以前にも言及した通り、教学マネジメントはそれにかけるコストをどこから捻出するのかが大きな問題です。また、コストを無尽蔵にかけることができない以上は、できることが限られてきます。しかし、これまでの教学マネジメントに関する議論では、様々な手段やその連携は紹介されつつも、まず何から取り組むべきか、その次は何に取り組むべきかと言う優先順位は明確に示されていません。

 全部大切だから全部に取り組みましょう、では、全部が中途半端になってしまいます。各大学に状況に合わせて、取り組むべき優先順位を示すべきではないかと考えています。

「仕事は楽ですか?」と聞くセンスのなさ

 最近では「大学(事務)職員の仕事は楽だ論」があり、まぁまぁ各人が言う分には結構なんじゃないんですかねと思いながら眺めています。私も先日、知り合いから「仕事は楽ですか?」と聞かれました。

 ただ、これはいろんな職業にも言えることかもしれませんが、飲み会の雑談ならともかく、求職者や入職者が「仕事は楽ですか?」と聞くことはちょっといただけないな、と感じています。その理由を以下に整理します。

1.「楽」とは主観的な価値判断である

 楽かどうかとは主観的な価値判断であり、当該者でなければその理由や価値が生じません。外的再現性がないため、答えをもらっても質問者にはその答えに意味を見いだすことはできないでしょう。

2.質問者にとって楽かどうかはわからない

 1.と重複しますが、主観的な価値判断であるため、仮に「楽ですよ」と答えを得たとしても、質問者にとって楽かどうかはわかりません。

3.質問の理由がわからない

 そもそも、なぜ「仕事は楽ですか?」と質問するでしょうか。残業をしたくないのであれば「残業はどの程度ありますか?」、肉体労働が嫌なのであれば「体を動かす仕事はどの程度ありますか?」などと聞けば良いでしょう。「仕事は楽ですか?」と聞くのは、その仕事に対するイメージが全くないか、質問そのものに意味がないか、どちらかかなと考えてしまいます。

 

(メモ)現代教育講座9「高等教育の大衆化-大衆化の流れをどう変えるか-」(昭和50年,第一法規出版株式会社)

 最近は1970,80年代に書かれた高等教育関連書籍を読み、当時の予想がどの程度成立しているのか考えています。今回は、そんな中で見つけた「現代教育講座9「高等教育の大衆化-大衆化の流れをどう変えるか-」(昭和50年,第一法規出版株式会社)」の「第5章 大学-自己変革の可能性と限界(喜多村和之)」(P139〜172)の内容について、まとめます。

 内容としては、大学改革の過去と現在(当時)を振り返り、大学組織と大学改革の特性を明示しています。まさに現代まで続く大学改革の組織的特性を指摘しており、ここに記しておこうと思った次第です。(引用部分が多くなっているため、引用として成立しているのか、かなり恐々していますが…)

1 大学改革の視点

新しい歴史的環境や時代の変化に対する大学の反応は、つねに1サイクル遅れて生ずるという体質を大学は宿命的に担わされているように思われる。この宿命的な”時代遅れ”の体質は、大学がその最も重要な機能の一つとして過去の文化遺産の伝達という使命を担っていること、さらには大学が学問の教育・研究を遂行するための基本的条件の1つとして、外部の世界の変化から相対的に隔離された自治を享受してきたことと無関係ではないだろう。

大学の歴史的環境にたいする不適応がやがて極限に達し、諸々の矛盾や機能障害として顕在化するとき、大学を根底から支えている支援基盤(それは例えば国家であったり、階級であったり、学生や納税者であったりする)の側から、そしてときには大学の内部から大学の革新や自己変革を求める圧力が発生するに至るのである。

大学改革とは、換言すれば、大学に直接に関わりのある既成の制度・機能・構造等の諸側面を、新しく出現してきた歴史的環境に適応させるために、特定の理念に基づいて意図的ないし計画的に改造しつつ、古くなった大学の中に新しい生命を蘇らせていく社会的努力のことである。

 1.では、中世ヨーロッパから続く大学という組織を振り返り、大学が常に改革の波に曝されてきたこと、それに対する大学側の反応は遅れて生じることを指摘しています。また、大学改革を、持続と適応の調整作用として整理しています。

2 日本における大学改革の歴史的展望

大学の歴史的時点として、

  • 第1期:帝国大学の成立によって日本の大学の正統モデルが形成された時期
  • 第2期:大正の大学令の公布により大学制度の拡張の萌芽が始まった時期
  • 第3期:戦後の大学大衆化への制度化が強行された時期
  • 第4期:大衆化の進行過程で不適応現象を顕在化させ1960年代後半の大学危機を引き起こさせた時期

と整理している。

第1期 正統モデルの形成

森・井上文政期は、(略)大学側の抵抗を無視するか、帝国大学との協議なしに、文部大臣としての”政府主導型改革”が独断で強行されたのである。

この政府主導型の”上からの改革”方式にたいしては、大学内部からの抵抗や、自主的な改革提案がしばしば生じている。(略)結局は政府の受けいれるところとならず、現実をみないままに至っている。

第2期 大学制度拡張の萌芽

改革の主体として表面に登場してきたのは、社会的・国家的利害関係の調整や専門知識の吸収を図る集団的な合議機関である審議会であった。 

大正期の学制改革帝国大学にとっては”質的低下への脅威”として、私立大学にとっては”昇格への契機”として、自主改革・整備に強大なインパクトをもたらしたのであった。

第3期 大衆化への制度的強行

戦後の学制改革で第一に注目すべきことは、教育理念や目的の”完全な革命”にもかかわらず、改革実現の方法における日本的パターンは何ら変わっていないということである。

敗戦直後に大学の改革を主体的に求める動きが大学の内部からは例外的にしかみられず、むしろ大学の革新を要請する圧力は、ジャーナリズムや学生の声として生じていることである。(略)大学が抜本的な革新を迫られる時期において、なおかつ大学の内部からは率先した改革運動が生じなかったということは、大学の保守的体質を示すとともに、大学の自主的改革がまず外部からの衝撃によって触発されるという受動的な性格をもつことを物語るものであろう。

第4期 大学危機と改革ブーム

大学の内部において、このようなゆるやかな変化の漸次的な蓄積によって、徐々に自己変革がなされつつあるという事実は、大学改革パターンの一側面を示すものとして注目されなければならないであろう。

この時期で注目すべき点は、既成の大学制度や個別大学内部の改革が例外的にしか実現に結びつかなかったのにたいし、現行の制度や慣行を破る革新的試み(ルビ:イノベーション)が政府の主導(ルビ:イニシアテイヴ)によって強行されたことである。

 2.では、日本における大学の歴史を4期に分け、それぞれにおける大学改革の概況を記しています。特に、現在でも通ずる審議会行政が明治中期ごろから生じてきたこと、審議会の審議結果を官僚が勅令として権威付けすることにより制御されてきたこと、WW2後の変革期にあっても改革の構造は従前と大きく変化していないこと、大学紛争期に無数に作られた抜本的な改革案はほとんど実施に結びつかなかった一方でゆるやな変化は絶えず生じていたことなどが印象に残りました。

3 大学改革の形態と力学

 日本における大学改革について、以下の3つの形態を指摘している。

  1. ドラスティックな大学改革は、外圧と内部危機とが結合した時期に、急激かつ全面的な制度変革という形をとって生じている。
  2. それぞれの改革期において、大学改革を唱導し、改革構想を企画・立案し、さらにその実施を推進した直接的な主役は、日本の場合、学外者-とりわけ強大な行政権・財政権を背景とした国家権力であったと言わざるを得ない。
  3. 大規模な制度改革が遂行された場合をみると、直接的な改革主体たる行政官僚は、常に最高権威(略)を巧妙に活用して《上からの》権威づけを図るとともに、改革構想の立案にあたっては精巧な内面指導や操縦を行い、改革方向を国家目的に望ましい方向に誘導して、最終的には勅令や法律の形で短期間に一気に断行する、という方法をとっている。

日本における大学制度の変革は、外圧と内部的危機の結合という歴史的条件の下で、まず外部からの圧力として生じ、学外者のイニシアティヴによって遂行されるというパターンをたどってきた。この《外からの》圧力と《上からの》主導に対して、大学の反応は強硬な反対運動を組織して変革を阻止するか、抵抗に遅れをとって止むなく強行された新制度に組み入れられるという受身的な立場に立たされていたように思われる。

大学制度の改革実現の可能性にたいする大学の実行力の限界を、シェルスキーは大学自治の構造と教授団の体質に求めている。彼によれば、自治の原則はみずから自治思想を肥大化させ、自治の拡大・強化を求めるものであり、自治集団たる教授会は常に支配構造の中での安定性を求めるものであるから、大学自治と大学の根本的改革という課題とは矛盾する。

 3.では、シェルスキーやへファリンを引用しつつ、日本の大学改革の構造と力関係について論じています。大学の内部構造からは抜本的な改革が生じにくいこと、改革はまずは外圧から生じていること、1970年代以降は既存の制度に手を加えるのではなく新しい制度を創設していく「”部分革新型”改革パターン」が普及しつつあることなどを指摘しています。

4 自己変革の可能性と限界

大学の自己改革は、①改革に必要な精神的・物的資源(社会的支援と財源)、②改革を唱道する指導者の出現、③大学自身の開かれた構造という3つの条件が結合して場合にのみ、実現の可能性がある、とへファリンは指摘している。(略)日本の大学は、これら3つの条件をいずれもはなはだしく欠いていると言わざるをえない。(略)要するに日本の大学は、変革の動因である学外との関係において、著しく閉鎖的な構造をもっているのである。

このように大学の自己改革の試みは、大学と外部との関係において、さらに大学内部の構造から、実現の可能性が大きく制約されているのである。しかし、そのような限界にもかかわらず、個々の大学は(略)革新と改変を積み上げていく試みを行いつつあるのであり、(略)自己変革能力の存在を証明しつつあるのも事実である。

 4.では、大学改革の可能性と限界について、言及しています。様々な要因により、日本の大学改革が成就しにくい環境にあること、学内世論の合意形成による改革方式には限界があること、細かい自己変革は実行されつつあるものの急激かつ全面的な変革には対応しきれないことを指摘しています。

5 大衆化と大学改革

日本の大学改革の歴史は、着々と進行する高等教育の大衆化という新しい歴史的状況の変化にたいして、一方では自己の同一性を持続せしめながら、他方では環境への適応を図っていく自己調整努力の過程であった。

高等教育の大衆化はたんに量的な規模拡大をもたらすばかりではなく、高等教育の目的、機能、制度、構造のあらゆる側面に、いわば質的な変化をも生じさせるのである。大学が高等教育の大衆化に適応していくためには、たんに自己の規模の量的拡大にとどまらず、既存の自己を再検討し、更新していく改革が不可欠に要請される理由はここにある。

高等教育はもはや大学だけの独占物であることを止めて、大学と大学以外の機関が共存しつつ同等の立場で、国民全体に教育の機会を提供する、より多元的な構造のものになるだろう。

 5.では、大学の大衆化と大学改革との関係について、論じています。ここまでの論点を振り返りつつ、現行の大学制度に加えて大学とは異なる機能を果たす柔軟な高等教育制度が求められるようになると言及しています。

読むべき参考文献 

  1. 大学改革の理論と方法-日米比較の視点から,喜多村,レファレンス240-241号,1971
  2. 大学改革の動向に関する予備調査-改革案の数量的分析,喜多村,レファレンス245号,1971
  3. 大学の孤独と自由-ドイツの大学ならびにその改革の理念と形態,シェルスキー,未来社,1970
  4. Dynamics of Academic Reform; San Francisco,J.B.Lon Hefferlin,Jossey-Bass,1969
  5. 変革を迫られる大学制度-高等教育システム発展段階と適応,喜多村,季刊教育法12号,1974

所感

 本稿は、1970年代に書かれたものであり、現在の大学改革の状況にも当てはまる点はあるものの、以下の点については当時と現在の状況の違いを踏まえてさらに検討が必要ではないかと考えます。

論点1.改革の是非

 本稿は大学改革の構造について分析したものであり、改革の内容や成果、その是非については射程外であろうと思います。一方、現在では様々な範囲において大学改革が求められており、その内容や是非について詳細な判断が必要でしょう。

論点2.改革の理由

 本稿は大学の大衆化が進展する中で書かれたものであり、大衆化に対応していくことも踏まえ、大学改革の構造について論じています。一方、現在では国家財政の状況や少子高齢化などが大学改革の理由となっており、この差異をより検討しなければならないでしょう。特に、4.で言及されていた「改革に必要な精神的・物的資源(社会的支援と財源)」という点は、当時よりも乏しくなっている可能性があります。

論点3.大学教員の多様化と教員組織の変化

 本稿では、大学自治が根本的な大学改革の阻害要因になっていると論じています。一方、実務家教員の増加など、現在では当時よりも大学教員が多様化していることが想像できます。そのため、教員組織の変化と大学改革との関係については、一層の検討が必要でしょう。

仕事だから尋ねる、仕事だから答える

 入職当時は人にものを尋ねることが非常に苦手でした。相手の時間を奪ってはいないか、こんなこと聞いてくるなと怒られないかなど色々を考えて、行動できなかったわけです。それを変えることができたのは「こっちも仕事だから尋ねる義務がある、相手も仕事だから答える義務がある」というマインドです。

1.なぜ聞くのか、どのように聞くのか

 業務上不明な点があり様々調べても合理的な解釈や対応が困難である場合に、所管している者に確認することが「尋ねる」という行為なのだろうと考えます。この場合、尋ねる前に自身でどのように情報を収集するのか、それでも分からない場合に誰に尋ねるのかという点がポイントでしょう。

 逆に言えば、ある程度調べられたと自身が思わなければ尋ねることはしないようにしています。ただ、ちょっと難しいのは、この”ある程度調べられたと自身が思”うことは経験則に寄る所が大きい点ですね。この点を養うため、初任者は、まずは当該業務に関するあらゆる情報に触れる必要があるでしょう。

 また、尋ねる際は、自身の判断が誤っていないか根拠とともに伺うか、あるいは、複数の選択肢を示してどれが適切かを伺うようにしています。無根拠に正解を求めるのではなく、ちゃんと自身の考えを示せるように質問したいですね。

2.公式情報以外はあまり信用していない

 私は、所管している者が発表している情報以外はあまり信用していません。他大学の事例や一般企業が市販している書籍、ブログ記事なども判断の材料にはなりますが、それのみで判断することはせず、法令等を踏まえて一定程度合理的に判断できる場合のみ、自身の責任において対応することにしています(当たり前のことを書いている気がしますが…)。

3.尋ねることも答えることも仕事

 上記を踏まえ、分からないことがあれば所管する者(文科省など)に尋ねることになります。その際は、尋ねることも答えることも仕事だと割り切っています。

 ちょっと放漫な言い方をすれば、カウンターパートが分からないと感じている点を知ることができるという意味で、質問を受ける側にも質問自体の利用価値は発生しています。その点からも、変に悩んだり各大学に事情を聞いたりするよりは、サッと所管する者に聞いた方が良い場合もあるでしょうね。

 仕事でなければ、質問に答える義務は発生しないでしょう。そのため、ブログで質問等を受けられているdaigaku23さんや新・筆者のつぶやきさんなどは、人脈等が広がることもあるでしょうが、色々と大変なこともあるだろうなぁと思います。弊ブログは固有の専門性に特化していませんので、今のところ、問い合わせを受け付ける予定はありません。現実世界で私のことをご存知の方であれば、お手伝いできることがあれば喜んで協力させてもらいますので、是非ともお声がけください。

教職課程の履修は4段階で整理する。

 最近、教職課程の履修について相談を受けることがままあります。その場合、4つの段階で整理し、どの段階の問題なのか、どの段階で対応すべき話なのかを考えるように助言しています。

 以下の図は、それらの段階を図示したものです。もし問題が発生した場合、第1段階と第2段階は文部科学省との調整、第3段階と第4段階では自大学内での調整が必要でしょう。

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 第1段階:教育職員免許法等に定められている事項

 教職課程の根拠法は教育職員免許法や同施行規則(以下、「同法等」という。)です。免許状の取得に必要な所要資格は同法等で規定されていますので、免許管理者(都道府県教育委員会)などと免許状の授与について調整する場合は同法等を参照することになります。

 同法等に規定される基準は最低限のものであり、これらを充足することは当然のことです。むしろ、充足していなかったら、場合によっては、新聞沙汰になるほどの大問題になるでしょう。

第2段階:教職課程認定申請等で認定を得ている事項

 多くの場合、教職課程認定申請等では、同法等に規定される基準以上の内容を申請し認定を得ていることと思います。例えば、教育職員免許法別表第1では、専修免許状の取得には24単位以上の修得が必要です。一方、課程認定申請において、24単位の必修科目のみを以って教育課程とするのではなく、他の授業科目も含めて24単位より多い必修科目単位数を設定していることも多かろうと思います。

 このように、同法等で定められた最低限の基準以上に、学科専攻等の教育課程を考慮した教職課程を構築していることでしょう。なお、この段階には、変更届による教職課程の変更も含みます。

第3段階:学科等の卒業要件単位数等で定められている事項

 教職課程認定申請等に記載した必修科目等は、あくまで当該学科等の教職課程における必修科目等であり、当該学科等全体の教育課程における必修科目等の取り扱いとは異なる場合があります。この違い(あるいは違いがないこと)を認識しなければ、教職課程を把握することはできません。学科等全体の教育課程・卒業要件と教職課程認定申請等で提出した書類(様式第2号)を見比べ、各授業がどのように取り扱われているか確認することが必要です。

 当然、第1段階の同法等に定められた所要資格には学位の取得が含まれているため、卒業要件単位数等を無視することはできませんね。

第4段階:学生への履修指導等により対応する事項

 例えば、前述の通り必修科目の取り扱いが異なっていた場合、学生が履修する際に注意を促さなければなりません。ガイダンス・履修の手引きでの周知や対面での指導など、様々な方法が考えられます。

転任先の労務管理にはご用心

 先日、4月から他機関への短期転任が決定している友人と会食をしていた折、こんなはずじゃなかったという話をいくつか聞きました。なかなか自分には無い視点だったので、本人の許可を得て、ここに書き記しておきます。(すでに転居を伴う異動は内示があったことと思うので、4月から異動先で働かれる方には有効性は少ないかもしれませんが…)

 結論から言うと、転任先の労務管理をよくよく確認した上で、異動希望を出したり異動した方が良いよ、と言うお話です。

1.出向と転任の違い

 一般的な言葉の定義はさておき、本稿では出向と転任を以下の通り整理します。

言葉 定義
出向 元機関に所属したまま他機関で業務を行うこと 文部科学省行政実務研修生
転任 一定の約束のもと、元機関を辞職して他機関で業務を行うこと 独立行政法人への短期転任

  簡単な違いは、給与がどの機関から支払われるか、つまり、労務管理がどの機関の責任において行われているのかですね。今回は、元機関を辞職し給与が異動先の機関から支払われる”転任”を取り上げます。

2.転任先の労務管理においてあらかじめ知っておいたほうが良いこと

 異動希望を出す前にあらかじめ知っておいた方が良かった(知っていたら希望を出さなかったかもしれない)と友人から言われたことを、以下の通り整理します。一部、私が考えたことも追記しています。

  1. 平均的な労働時間はどの程度か
  2. 休日勤務(公的自主的問わず)はどの程度か
  3. 繁忙期はいつか
  4. 繁忙期の労働時間はどの程度か
  5. 働いた分だけ超過勤務手当が支給されるのか
  6. 保険・年金関係や財形貯蓄等は全て引き継がれるのか

 これらは転任先の労務管理に関する事項です。独法や国の機関の場合、5.は保証されていない可能性が十分にあります。また、意外と6.などは影響がある方もいるのではないでしょうか。

3.情報をどのように手に入れるのか

 前項の情報をどのように手に入れるのかは悩ましいところです。まさか、いきなり転任予定先に電話をかけてそちらは残業代満額出ますか?と聞くわけにもいきません。同じ機関に転任したことのある者を学内で探す(あるいは人事担当者に紹介してもらう)か、人づてに学外者を紹介してもらうかにより経験者と接触し、実態を確認すると言うことが良さそうです。また、前項の5.については、元機関の担当者と十分な調整が必要でしょうね。

3つのポリシーに係る模式図の作成とそこから見えてくる課題

 引き続き、3つのポリシーに関する話題です。

 教学マネジメントを巡る昨今の議論では、質保証に焦点があたり、3つのポリシーと教育課程との関係がわかりにくいと感じています。そのため、改めて、大学における教育課程等と3つのポリシーの関係を自分なりに整理しました。

1.3つのポリシーとは

 くどいようですが、3つのポリシーを下記表に示します。

語句 意味
ディプロマ・ ポリシー(DP) 各大学,学部・学科等の教育理念に基づき,どのような力を身に付けた者に卒業を認定し,学位を授与するのかを定める基本的な方針であり,学生の学修成果の目標ともなるもの。
カリキュラム・ ポリシー(CP) ディプロマ・ポリシーの達成のために,どのような教育課程を編成し,どのような教育内容・方法を実施し,学修成果をどのように評価するのかを定める基本的な方針。
アドミッション・ ポリシー(AP) 各大学,学部・学科等の教育理念,ディプロマ・ポリシー,カリキュラム・ポリシーに基づく教育内容等を踏まえ,どのように入学者を受け入れるかを定める基本的な方針であり,受け入れる学生に求める学習成果(「学力の3要素」についてどのような成果を求めるか)を示すもの。

2.教育課程等と3つのポリシーとの関係

 教育課程等と3つのポリシーとの関係について、以下の通り模式図を作成しました。なお、私自身の理解が及ぶ範囲で作成していますので、国策的に正解かどうかは不明です。 

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3.模式図から見えてくる課題

3−1.授業の履修で資質・能力は積み上がるのか

 上記模式図ではAPに記載された学習成果を基盤として、教育課程に配置された授業を体系的に履修することで、DPに記載された資質・能力に近づいていくモデルをしています。このように授業の履修により積み上げていくことは卒業要件の充足と同じだと思いますが、DPに記された資質・能力が授業の履修で積み上がっていくのかは自明ではありません。

 学修成果の可視化に係る取り組みにおいて、各授業にDPの資質・能力を割り当て、履修した授業のそれを累積することでDPの到達度を測る事例があったように記憶しています。これは、DPに示す資質・能力が授業の履修を重ねることにより向上していく性質のものであることを前提としています。この前提が是であるかは、慎重に検討した方が良いのではないかと思っています。

 一方で、DPに示す資質・能力の到達度を測定しなければならないとなった時に、授業との関係を踏まえると、この他の方法はちょっと容易には考え付かないかもしれません。

3−2.DPを踏まえた卒業判定は可能なのか

 DPは”どのような力を身に付けた者に卒業を認定し,学位を授与するのかを定める基本的な方針”とされており、卒業判定にも関わってきます。ただ、通常の卒業判定は、卒業認定基準単位数により修得単位数によって規定されていることが多いと思います。この点で、DPとどのようにバランスをとっていくか(どの程度まで本気でDPにより卒業判定を行うか)は、私には考えつきません。

3−3.APにより入試をコントロールできるのか

 APは”受け入れる学生に求める学習成果(「学力の3要素」についてどのような成果を求めるか)を示すもの”とされています。ここで言う学習成果とは、多くの場合は、高等学校での学習成果のことです。DPと異なり資質・能力ではなく学習成果となっていますので、既存の入学者選抜方法と比較的親和性が高いのではないかと思っています。ただ、どの程度まで本気出してAPと入試との整合性を開拓していくのかは、各機関で判断することになるでしょうね。

3−4.CPの策定・検証が最も困難ではないか

 個人的には、CPを適切に表現しそれを検証することが最も困難ではないかと思っています。

 基本的には、既存の教育課程を表現することになるだろうと思いますが、かなり緻密かつ体系的に授業を編成していなければ、DPとAPとの整合性を持ってCPを表現することは困難でしょうね。かつ、CPに合わせて教育課程を編成しようとしても、これまでの経緯等もあり、教育課程を大幅かつ早急に変更することは容易ではありません。

3−5.どの程度本気でやるか

 3つのポリシーはあくまでポリシーであり、追求しようとすればどこまででも追求できるものだと考えます。そのため、どの程度本気で(コストをかけて)3つのポリシーと教育課程等との整合性を整備し検証していくのかが重要になります。個人的には、本気になればなるほど良い成果が出るとは思えない案件だと感じるため、一定程度のところでうまく折り合いとつけることが無難ではないかと思っています。

 検討を重ねている文科省や関係者には申し訳ないですが(と言うのは建前で申し訳なく思う気持ちなど一寸もないのですが)、3つのポリシーに基づく学修成果の可視化などは、そんなに力を入れてやらなくてもいいのではないかと思っています。そりゃ関係者一同は「3つのポリシー万歳!3つのポリシーのためなら死ねる!」と思っているのかもしれませんが、こちらは従前の教育研究等活動に加えて取り組みを行わなければならないわけで、3つのポリシー対応のみにコストを分配できるわけではありません。

    誰のために、何のために、どのように行うのかを考えたときに、社会への説明責任のためではなく、真に学生等の成長や今後に繋がるような取組を目指したいですね。