「「法人化」を言い訳にする残念な人々」という記事を残念な思いで眺める。

国立大学の能力低下、法人化は失敗だったのか? NFIからの提言(10)「法人化」を言い訳にする残念な人々(1/5) | JBpress(Japan Business Press)

その中で、日本が抱える課題をどのように解決していくべきか。データを活用した政策形成の手法を研究するNFI(Next Generation Fundamental Policy Research Institute、次世代基盤政策研究所)の専門家がこの国のあるべき未来図を論じる。国立大学の法人化の是非を理事長の森田朗氏が問う(過去9回分はこちら)。

 非常に腹の立つ記事を見つけたので、あまり論考できていませんが、いろいろ言いたいことがあります。久しぶりに書き散らかし感があるエントリーとなりましたが、本来弊BLOGは都内某所への怒りから始めたところもありますので、初心を思い出しました。
 ちなみに私は、「”新たな価値により新たな資金を稼ぎそれを原資にさらに新たな価値を生みだし新たな資金を稼ぎ法人全体を成長させる”ということを”経営”と呼ぶならば、国立大学法人は制度上経営はできないようになっている」派なので、そもそも「国立大学の能力低下、法人化は失敗だったのか?」というタイトル自体が失当だと思っています。経営をするのは国立大学ではなく国立大学法人ですしね。

法人化と予算削減は分けて考えなければならない

これまで、予算は支出費目を指定されていたが、法人化後は使途を指定しない運営費交付金として付与する。ただし、大学自身で内部の効率化を図ることができるし、競争的研究資金を含め外部資金の導入も認められることから、運営費交付金に関しては毎年1%削減することとされた。

要するに、大学が「自由」と「カネ」を希望しても両方得るのはムリである。そのときの情勢からしてカネを増やすことは期待できない以上、自由を選択するのは合理的な選択であった。

 平成16年度から効率化係数が導入されたのは事実です。ただし、それと法人化を分けて考えなければ何が問題だったのかが整理できないと感じています。特に、国立大学法人法制定時の国会付帯決議は、

衆議院
六 運営費交付金等の算定に当たっては、公正かつ透明性のある基準に従って行うとともに、法人化前の公費投入額を十分に確保し、必要な運営費交付金等を措置するよう努めること。また、学生納付金については、経済状況によって学生の進学機会を奪うこととならないよう、適正な金額とするよう努めること。

参議院
十二  運営費交付金等の算定に当たっては、算定基準及び算定根拠を明確にした上で公表し、公正性・透明性を確保するとともに、各法人の規模等その特性を考慮した適切な算定方法となるよう工夫すること。また、法人化前の公費投入額を踏まえ、従来以上に各国立大学における教育研究が確実に実施されるに必要な所要額を確保するよう努めること。

となっていることは忘れてはなりません。付帯決議の実効性はさておき、国会審議をないがしろにするようなことは、仮にも当事者を自認するのであればするべきではないでしょう。言い方を借りるならば、知ったような顔をしてスマートぶったなことを言うよりは、「自由」も「カネ」も手に入れるように行動するほうがなんぼか役に立ちますよ。

競争的資金は大学経営に使えるとは限らない

すなわち、上手に経営を行うことができる大学は限られた資金であっても有効に使い、さらなる資金を獲得して研究も教育も発展させることができるであろう。他方、経営能力に欠ける大学は衰退し、将来的には統廃合の対象となるかもしれない。

 さも基盤的経費がなくとも競争的資金により大学経営が成せるように書かれています。しかし、使途の制限がない基盤的経費に比べ、競争的資金は一般的に使途が極めて限定的であり、必ずしもなんでも使えるとは限りません。

 例えるなら、Aという商品が売れたとしてもその売り上げはA'という商品の開発にしか使えず、赤字になっているBという商品には使えないようなものです。幅広い大学の業務の中でごくごく一部の事業のみ潤ったとしても、その根幹となる部分(人件費や整備費など)が貧弱なままであれば、運営すらおぼつかなくなりますね。

改革をすればうまくいくという論拠が不明

このため、法人化に際しては、大学トップである学長の選出は、外部の人材も加えた学長選考会議に委ねる仕組みが採用された。ただ、新設大学はともかく、伝統ある国立大学では教員の信任なきトップがリーダーシップを発揮することは難しい。その結果、多くの国立大学で、従来と同様の構成員による意向投票の制度が維持されたが、従来の慣習から脱却できないがゆえに、思い切った改革ができず、ジリ貧状態に陥りつつあるといえるのではないか。

その意味で、国立大学も、そろそろ腰を据えて自ら思い切った改革に取り組むべきときだと思う。学内の研究能力や事務運営の厳格な評価を行い、ムダを削減し効率性を高め、発展の可能性のある分野に資源を振り向けるべきである。

 さも改革すれば経営がうまくいくといった論調ですが、論拠は不明です。むしろ、改革を重ねることにより、構成員のフォロワーシップが低下し、大学全体の活力が低下する可能性もあるのではないでしょうか。教育政策に限らない話かもしれませんが、政策の方向性がよくないのか、政策の運用がよくないのか、どちらなのかはなかなか難しいなと感じています。

結局、財務当局と同じことしか言っていない

その結果、運営費交付金の削減はおかしい、法人化は間違いだったという主張になっているように思われる。しかし、現状の経営体制のまま、運営費交付金の増額を求める主張は納税者に対して説得力を欠くといわざるをえないだろう。

 突然「納税者」という言葉が出てきました。なるほど確かに総体としての国立大学法人の経常収益のうち、34%は運営費交付金収益です*1。ただ、納税者たる国民が国立大学の経営についてどれほど興味関心があるのでしょうか。たしかに気にすべき点ではあり無視はできませんが、どちらかといえば「納税者」という言葉を隠れ蓑にした財務当局のことでしょうね。となると、この記事で書かれていることは財務当局の主張と同じように感じてきます。

とは言え、最後の一文はそのとおり

いま必要なのは、大学人が大学を取り巻く環境について認識すること、すなわち大学人の意識改革だ。それなくして、ただただ財源の不足を指摘し、法人化は間違いだったと主張しても、国立大学の教育・研究の質が改善されるとはとても思えない。

 ここまでいろいろと指摘してきました。ただ、「意識改革」という中身のない言葉は嫌いですが、最後の一文はまぁそれもあるよねと思っています。私は法人化後の採用ですが、この10年間で国立大学の中は結構変わってきたと感じています。しかし、それ以上に様々な要求が国立大学に寄せられ、変化のメリットをはるかに上回る改革要求のデメリットが生じているのかもしれません。とは言え、この元記事に書かれたような内容を世間も認知しているのだとしたら、自分にはどのようなことができるのか考えてしまいます。

 本来ならば、改革に夢を見ず地道な変化を積み上げていくことが望ましいと思いますが、当の行政当局が改革に夢をみて恋焦がれている状況では、それをうまくいなしながら自分たちの道を作っていなかければならないと改めて感じました。