教学マネジメントは広まるのか。
教学マネジメント特別委員会の議事録が公表されています。この委員会は、各大学等における教学マネジメントの確立に向けた方策(学修成果の可視化や情報公表の在り方を含む)について専門的な調査審議を行うために、中央教育審議会大学分科会の下に設置されています。全ての大学等の教育活動に関することですので、内容が気になるところです。簡単に所感を記しておきます。
1.教学マネジメント(案)の内容
同委員会第3回会議資料3には、教学マネジメント(案)が掲載されています。
内容を見ると、既存の政策が繰り返し言及されているのではないかと思われます。今まであまり言及されてこなかった事項としては、
- DPとの関係が明らかでない科目は見直しや取りやめを場合により検討
- 経営層への研鑽
あたりでしょうか。
2.委員の気になる発言
第2回議事録から、委員の気になる発言を挙げてみます。
あともう1点については,どこにどう入れたらいいのかよく分からないんですが,例えば授業評価をやっていくとか,あるいは学修成果を把握したり,それを可視化していく,情報公開していくといったときに,大学はどうも自前主義に走り過ぎるところがある気がします。共通化できる部分はすればよいのに、それぞれの大学で多大な開発コストを掛けて,ローカル版を大学の中でも学部版,学科版とか作って,後でうまく連携できないとかということが結構起きている気がします。この先,どう考えても厳しい時代を迎えていくので,こういったものを支える基盤的なものをできるだけ共有化していくとか,できるだけ自前主義を脱して何とか全体で効率性と高い効果をあげていく、といったことを実現できないかという観点をどこかに入れた上で議論したらいいなと思いました。
要するに,労力を掛けて教学マネジメントを整えても甲斐のない社会の仕組みになっているのではないか。そうした状況の中で全国的に教学マネジメントを進めていっても,労力に見合った成果が見込まれないとすれば,大学教員のコミットメントを取り付けることは難しいのではないか。教学マネジメントを進めるためには,取組が評価される環境を整えなければ,十分な協力は得られないということを考える必要があると思います。
今回,具体的な項目が16ぐらいですかね,挙げられているんですが,出てきている用語自体は決して新規のものではないと思います。これまで答申とか外部評価とか補助金申請に当たっての条件として提示されてきたんですけれども,なぜこれを繰り返しここで出さなければいけないのかということについても考えなきゃいけないかなと思っております。
これら点については、後述する「なぜ当たり前のはずの教学マネジメントが行われていないのか」と大きく関係しているように考えています。
経営改革に積極的な企業は,きちっとしたジョブ・ディスクリプションを作成しています。仕事の責任は何か,何をすると評価されて,何を頑張っても駄目なのかなどをはっきりさせています。そのジョブ・ディスクリプションを遂行する前提は、どんな事が出来るかという能力、そして、何に適性があるかです。
「きちっとしたジョブ・ディスクリプション」は気になりますね(それ以上に「きちっとしていないジョブ・ディスクリプション」が気になりますが。。。」)。是非とも会議資料として提出していただきたいです。
DPと卒業の質保証との関係を,私は初めてこの委員会に参加しているので,実は現場でもかなり今,学内でそこが議論になっていて,どこまで精度を持ったDPを作るかというところで,いつもここで止まるんです。
大森委員が書かれていることについて,私も非常に強く感じているところがありまして,申し上げたいと思います。私,今ちょうど,京都大学の中で3ポリシーの見直し作業に関わっておりまして,そのときにDPのレベルで学修目標を明確かつ具体的に書くということは非常に難しいなと感じています。ところが,ここの箇所ではDPで明確かつ具体的にと求められているので,DPを書かれる教員や職員の方々から,どの程度明確かつ具体的に書くんですか,学位プログラム全体でそういうことが書けるんでしょうかという悩みが出てきます。
DPに関しては,やっぱり抽象度が高いものにならざるを得ないだろうと思っております。
こういう議論というのは,大体,ともすれば理想的になり過ぎる。教育の議論というのは大体そういうのが多くて,きょうのも,ディプロマ・ポリシーについて,それがひも付けられてカリキュラムができて,科目が決まりということが前提で全部話が出ていたんですけれど,現実にはそれは非常に難しいわけです。それは森委員がおっしゃったように,そもそもディプロマ・ポリシーの到達基準なんていうのは,まだそんなことを測定している例というのはないわけですから,更に数値化なんていうのはとてもできないという,そういうような状況にあるのですけれど,きょうの議論というのはどっちかというと,こういうふうになればいいよねという議論になってしまっている。そこのところで非常に気になるのが,そういった場合に,できない場合どうするかという担保が必要だと思うのです。そういう議論がないので,ちょっと理想的になり過ぎているというのは気になります。
そこで,本題に戻るのですけれど,3ページの上のところに,ディプロマ・ポリシーにおいて「できるようにすること」,これはそのとおりですけど,逆算して,必要な授業科目を開設し,体系的に教育課程を編成することが必要である,これも理想論としてはそのとおりなんです。ただ,今申し上げたように,それが本当にできるかというと,かなり難しい。その上で,「同方針への貢献が見込まれない科目については,内容の見直しや取りやめを検討する必要もある」と。これはかなりきつい書き方ですね。
ともすれば理想論になりがちの話を引き戻してくれる発言だと感じました。
コースのカリキュラム・授業レベルで見ていく部分と,非常に抽象度の高いところで汎用的に見ていく部分と,それは様々にあって,非常に個別的な水準においては,大学が独自にアセスメントしていくしかもちろんないと思いますし,それが大事だと思いますが,非常に高いところでは,やはり社会の方々が見て,ああ,そうか,ここの大学の学生というのはこういう感じで力が付いてきているのかとか,あるいは付いているのかということをやっぱり見たい,見せなければならないんだと思うんですね。それで初めて社会との関係とか信頼が修復されていくといいますか,関係がとれていく。
言っていることは正論で理解できるのですが、これは大学の数が10や20程度の時に成立することなのではないでしょうか。大学が800弱短期大学が350程度ある中で、DPは抽象的なものになると言っていることを踏まえると、「ここの大学の学生というのはこういう感じで力が付いてきているのかとか,あるいは付いているのかということをやっぱり見たい,見せなければならない」というのは、姿勢としては共感できるのですが、どのような違いが出せるのかちょっとイメージできないです。常に忘れてはいけないことは、全国の1000以上の大学短期大学がこの教学マネジメントに取り組んでいかなければならないことです。
そうすると,具体的には何をすればいいかというと,1科目当たりの単位数を増やす。つまり,1単位ないし2単位の科目をなくしていって,4単位以上の科目を基本にする体制に変えていくという,これをどうするかということが,この授業科目・教育課程の編成にとって根本の問題だと私は思っていますので,それを提起させていただきたいと思います。
ゼミとか非常に豊かなインタラクションであったり議論というのが,卒業研究とかそういうのができるのは,やっぱり同じ教員で,同じ学生たちで,多くの時間を共有して,結構お互いの共有情報というか,そういうのも蓄積されて心が動くんですよね。そういう認知的ないわゆる学修というのが一方で大事なんですが,他方で,いわゆる情意面といいますか,そういうお互いの,同じ教師の授業ですね,先ほどの吉見委員の話をちょっと加えたら,4単位というだけじゃなくて多分週複数回という,そこがとても大事で,それを大分以前のように年間4単位で週1回やっていたのでは話は変わりませんので,やっぱり週複数回で単位を3単位,4単位と増やしていって,同じ先生の同じ学生を週複数回見ていくというのが,私なんかは,非常に心も動いてお互いの共有知も増えて学修が深くなっていく一つの制度的な在り方かなと思います。
単位制度の運用というのが日本の場合は非常に難しいので,そこのところは教学マネジメントの基盤になる部分だと私は思います。単位制度の運用状況というのもどこかで入れておいた方が質保証の面ではいいと思います。
科目数や単位数の話も出ています。日本の大学の授業の単位数が細分化していった経緯を読んだ気もするのですが、出典が思い出せません。
3.教学マネジメントを巡る議論への所感
3-1.なぜ教学マネジメントに取り組んでいないのか
教学マネジメントとは、3つのポリシー、特にDiplomaPolicy(DP:卒業認定、学位授与に関する方針)をもとに、体系的な教育課程を構築し、点検・評価・改善を繰り返しながら、それらについて適切に情報公開を行なっていくことだと理解しています。これだけ見ると、極めて普通で当たり前に行うべきことのように感じます。私が最も興味があるのは、なぜ当たり前に思えるような教学マネジメント(あるいはこの名称でなくとも同様の取り組み)が多くの大学で取り組まれていないのか(あるいは取り組まれていると思われていないのか)です。例えば、
- 教学マネジメントに取り組むべきだと考えていない
- 重要性は理解しているが取り組むリソースがない
- 重要性は理解しリソースもあるが方法がわからない
- 重要性は理解しリソースもあり方法もわかるが効果が上がっていない
- 重要性は理解しリソースもあり方法もわかり効果も上がっているが適切に情報発信できていない
などが考えられます。なぜ取り組まれていないのか(あるいは取り組まれていると思われていないのか)という点をある程度整理しなければ、効果がある形で広めていくことは難しいかもしれません(どこかで資料を見た気がしないでもないですが)。
3−2.DPを達成・測定する必要はあるのか
今までの大学教育に関する議論は全く無視しますが、そもそもDPはあくまでPolicyであり、私のイメージでは到達できないほど遠くにあるもの(その方向に向かうべきもの)だと整理すべきではないか思っています。雑な例えをすると、私学の建学の精神と同じような”目指すべきもの”と捉えています。私が知る限り、建学の精神がどの達成されているか、建学の精神を直接的に尺度として測定している私学は聞いたことがありません。
DPは、あくまで教育課程を構築する際の方針であり、科目を積み上げることにより学生がDPに(ある意味で擬似的に)近づくものだと考えます。この科目の積み上げとは、つまり卒業要件単位のことです。卒業時に修得した単位や授業などから学生がどの程度の能力を習得したかを仮定しこれがDPとどのように関連付けられるかを検討するのは良いのですが、修得単位等を無視してアンケート等にてDPを測定しようとするのは明らかに悪手だと感じます。
もっと言うと、DPを巡る議論の際に卒業要件単位への言及があまりないことは非常に不満を感じています。DPと卒業とを関連づけるのであれば、DPに合わせて卒業要件単位を再構築すべきです。そうでなければ、理論上はDPに合わせた教育課程の構築はできないのではないでしょうか。
3−3.まずはカリキュラムの体系化を強力に押し進めるべき
学修成果の可視化や情報公開など様々な要素が混在してわかりにくいのですが、最も早くかつ力を入れて取り組むべきは、カリキュラムの体系化だと考えています。各授業がどのように接続しているのか、授業名称や履修年次のみではなく、シラバスの内容や授業担当者の思いも含めて擦り合わせを行い、1科目ごとの授業相関図を作成すべきです。その検討過程で、既存の授業内容では接続の前後関係を明確にできない場合は、授業内容の変更も含めて検討することになるでしょう。どのような流れで学生に学んでいってほしいのか、注力して道筋を整理することで、教学マネジメントの大抵の事柄には対応できるのではないかと考えています。事務的に一部の教員が案を作りそれを確認するのではなく、特定の組織の全教員が参加して策定する形に持っていきたいですね。