なぜ大学職員は無能と言われるのか。

 世の中には、大学職員は無能だとか、クソだとかという言葉が溢れているなと感じることがあります。この点は、id:shinnji28さんも指摘されていますね。

shinnji28.hatenablog.com

 ずっと考えているのは、なぜ大学職員はクソ・無能だと言われるのか、ということです。近年では職業としての大学職員の人気が高まっているということも聞きますし、高い倍率をくぐり抜け大学職員になった者はそれなりに能力があるのだろうと思います。そのような者がなぜ無能と呼ばれるようになるのでしょうか。この変化がどのように生じているのか、考えてみます。

1.誰から無能と言われているのか

 Yahoo!リアルタイム検索でサーチすると、やはり学生らしき方から大学職員に対する辛辣な言葉が多いように感じます。また、大学教員らしき方もたまに言われているようです。職員と対面してやりとりをする際に無能を感じたということでしょう。

 このような発言は、学生全体あるいは教員全体から見ればごく一部ですし、これだけで大学職員全体を規定することはできないでしょう。以前、弊BLOGでも言及した通り、職員の中で実際に学生対応に従事している職員はそれほど多くありません。

kakichirashi.hatenadiary.jp

 ただ、このように表に出てこずとも同様に感じてる方はいるでしょうし、何よりも私自身もそのような職員に心当たりがありますので、少ない人間がネガティブ・イメージを振りまいているということではないのだろうな、と感じています。(本来ならば、無能と言われていることの妥当性を検証すべきかなとは思いますが、感情に起因する部分もあるでしょうし、ちょっと難しいかもしれません。)

2.無能とは何か

 無能とはどのような状態を指すのでしょうか。例えば、自分の言い分を聞いてもらえない、個別事情を考慮してもらえない、対応が迅速ではない、高圧的な態度である、などが考えられます。総じて、自分に利益をもたらさない対応であるということが一つの切り口かなと思います。

 アメリカの社会学者R.K.マートンは、官僚制の逆機能として、官僚制における機能障害の可能性を指摘しました。

官僚制組織とは何か

  1. 訓練された無能力
  2. 目的の転移
  3. 規則への「過同調」
  4. 繁文縟礼
  5. セクショナリズム

 本稿では無能の定義付けをしませんが、なんとなく、このあたりも想定できるところです。

3.なぜ無能になるのか

 無能と言われることは、無能だと判断されるような言動が生じているということです。 なぜ、このような言動が生じるのでしょうか。

1.もともと無能である

 まず考えられるのが、そもそも当該職員の能力が足りてないということです。この場合、どのように対応しようとも無能だと判断されてしまいます。これは、能力開発というよりも、採用の問題と感じてしまいますね。

 ただ、前述の通り採用状況もよくなっている可能性もありますし、基本的な能力の保証はある程度できているところもあるのかなと思っています。過去に採用された方や縁故採用の方はなんとも言えませんが。。。

2.仕事をするうちに無能になる

 仕事をするうちに物事に対応できなくなってくるということも考えられます。これは、過去からの因縁や規則、組織文化、空気感など様々な要因から発生するのでしょう。前述の「訓練された無能力」にも関係するかもしれません。

官僚制の機能と逆機能 - 公務員試験のための教養

また、マートンは、ある状況に適合する技術の訓練を受けたものが、想定された状況とは異なる状況下でも自己の訓練された技能に固執するあまり、柔軟性に欠けたまったく能のない対応をしてしまう現象を「訓練された無能力」と呼んだ

 対面の仕事は、基本的には、①受付②分類③対応の3段階に分かれると考えます。

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 官僚制支配の日常構造―善意による支配とは何かでは、第一線職員*1は、夥しい仕事量と迅速な決定という組織的圧力にたえずさらされており一件あたりの単位時間を大きくとることができないとしており、クライアントをあるカテゴリーにどのように分類ないし振り分けるかというレベルにおける裁量があり職業的規範に基づき処理をする一方、クライアントへ心理的コストを負荷しクライアントの対応時間やクライアントからの自発的な申し出そのものを削減する可能性を指摘しています。

 ここから示唆されるのは、①の段階で受付を少なくするため、また、②の段階でより短い時間で分類するため、高圧的な態度や期待されない態度をとることで、申し出者に対しある種の諦めの反応(こいつに話しても無駄だ、など)を誘発しているという可能性です。これにより、無能の言動を発することで、自身の仕事量をコントロールしていることが考えられます。戦略的愚鈍化とでも言えるでしょうか。忙しい時に面倒くさい物事に対しとげとげしい対応をしてしまうことも、これに類似するかもしれません。

 この戦略を取るかどうかは、個人の意識も大切ですが、組織文化や職場環境にも大きく影響されます。「ここまで対応しなくていい」と先輩や上司に言われれば、まぁそんなものかと思いますよね。そして、頻繁にこのような態度をとりこれに最適化した業務を行っていると、もはやそのような無能な言動が標準的なものになってしまうことは、容易に想像がつきます。つまり、環境が無能な言動を生み出している可能性があります。

3.無能なふりをしている

 前述2と基本的には同様ですが、標準的に無能な言動になるのではなく、時に無能なふりをして業務コストを下げようとするなど状況に応じて対応しているということも考えられます。イメージとして、曲がったまま戻らない針金と加熱すれば元に戻る形状記憶合金の違いでしょうか。

 

 あまり文献調査等をしなかったため十分に分析できていませんが、このようなことがあり得るのかなと考えています。「無能」の定義、というよりも、どのような内容をどの程度の水準で求められているのかということをもっと明確にしなければ、無能性の分析フレームが構築できないですね。

 何にせよ、目の前にいる者に誠実に対応していくという当たり前のことをしなければ職員の専門性どうのこうのということもあまり意味がないかなと感じています。

*1:本書では、第一線職員とは「職務の恒常的・日常的要素として社会的分業によって行政機関が担当することを期待された特定市民(行政客体もしくは顧客層)との何らかの意味での(多くは対面的な)接触を仕事とする人々」と定義されています。また、「第一線職員の仕事は行政機関を介して政府が提供するサーヴィスをクライアントに分配することであり、第一線職員の個々の行為は市民の現実に受け取る公的サーヴィス・公的サンクションの決定にかかわる。」とされています。