RIHE公開セミナー「大学における学習」に参加してきました。その1

 8月20日及び21日に開催された広島大学高等教育研究開発センター(RIHE)平成27年度高等教育公開セミナー「大学における学習」に参加してきました。研究成果に基づく理論的な話から海外大学の事情まで、日本の高等教育研究の中心地で幅広く学ぶことができたのはいい経験になりました。

   広島大学では去年から4年目職員研修としてこのセミナーへの参加を促しているようで、広島大学の職員の方も参加されていました。高等教育研究が盛んな広島大学ならではでしょうが、このように学内リソースを活用した研修は良いものですね。

 当日行われた講義の様子を3回に分けて記録します。なお、あくまで一部分のみを私が理解できた程度に記しています。

大学教育と社会の厚生(丸山)

  • 大学にはcollegeとuniversityという言葉を当てはめられるが、それぞれ意味が異なる。collegeはイギリス発祥であり、co-とは一緒という意味をもつ。これは宗教施設で牧師と学生が一緒に過ごしていた名残である。当時のcollegeとは訓練機関であり、教師に絶対的な権力があった。また、collegeは町から離れた郊外に設置された。
  • 一方、universityは中世ヨーロッパの都市で発達したが、uni-とは一つの、-versityとはベクトルを意味し、つまりuniversityとは一つの方向、真理を探究する場であった。universityでは学生が教師を雇用し、医学や神学、法律学を学んでいた。universityは研究志向であり、都市の中にあったことからtownとgownが入り混じった場になっていた。
  • 計算すると、私立大学は学生一人当たり年に12万円、国立大学は年に150万円ほど公的な資金が出ていることになる。公的支出がなければ、国立大学の学費は文系では100万円、理系では200万円程度になる。
  • 教育の機会均等のため、憲法に則り、教育に対し公財政支出が行われている。公財政支出を行うもう一つの理由は、教育は社会の厚生を促進する機能があるためである。日本は他国に比べ奨学金の提供が乏しい。
  • 日本は進学熱心であり、それ故に受験戦争など様々な問題が生じた。一方、アメリカは進学促進を重視しており、例えばミシガン州では進学による収入の増加や失業率の低下、授業料の効果を宣伝した。日本は学歴への配慮や過度の競争をさけるため、あまりこのような点は宣伝していない。
  • 教育がもつ非金銭的な価値は見逃されがちである。物事を楽しむためには、基礎学力やトレーニングが必要であり、その機会を与えるのが大学である。進学が健康に影響を与えるという研究成果もある。大学に行けば快適な市民生活が送れるというのが、アメリカ流のアピールである。日本でも家庭環境と学力との関係が注目されつつある。大学教育は長い目で見れば価値がある。
  • 日本は高等教育投資の民間支出がGDP比1.0%程度で、社会保障費との関係もあり、なかなか政府支出が増えない。一人当たりの高等教育費では先進国の平均程度だが、これは低い政府支出を民間支出でカバーしているためと考えられる。
  • 一時期大学在学者数は停滞しているが、それは大規模私立大学を都心部に作らせなかった時期であり、その時期に多くの私立大学は郊外にキャンパスをつくった。その後、再び大学在学者数が増加しだした。IT革命に乗り遅れたのはこの停滞期のせいではないかという説もある。
  • 1995年から、学生が増えたにも関わらず、政府支出が増えなくなった。財政状況が悪化したためであり、なんとか支出を増やす必要がある。国立大学の施設整備費補助金は不足している。また、研究費や奨学金など、機関補助から個人補助へのシフトが全体的に見られる。

「大学における学び」─その背景・実態・改革の方向性─(藤村)

  • 大学には1000年ほどの歴史がある。もっとも初期の大学は法・医・神学を学ぶ教育機関だった。その下に、予備課程として、3学4科のリベラルアーツを学ぶ場があったが、それが現在の教養教育の源流である。
  • この予備課程はドイツでは学術としてのユニバーシティに変化し、またイギリスではカレッジに変化した。もともとあったリベラルアーツは中等教育機関へシフトした。
  • アメリカでは、リベラルアーツは古典を通じた思考訓練となり、その後ドイツを真似て研究大学院大学が作られた。また、工業や農業を含めた州立大学やコミュニティカレッジも作られた。
  • 様々な流れの中で、職業教育、専門教育、一般教育が高等教育の中に含まれた。アメリカは移民の国であり、国民を統制する手段として一般教育を活用した。1950年代から教育プログラム主義によるモジュール化やシラバスなどが導入されつつあった。
  • 日本では、ドイツの専門教育を取り入れ、帝国大学を頂点としたピラミッドを形成した。一般教育は戦後アメリカから入ってきた。その際、教養部2年、専門教育2年の4年制が形成された。体育が教養科目に含まれているのは、戦後のアメリカ教育視察団からの意見により、公衆衛生教育を推進するためである。
  • 戦後直後の一般教育の指導書では授業時間以外に学習時間が明記されていたが、いつの間にかなくなってしまい、日本には定着しなかった。今ようやくその動きが起こっている。
  • 90年代以降の日本における大学教育改革の背景として、デフレ経済や雇用状況の悪化、少子化、公財政の逼迫、経済のグローバル化などがある。
  • 日本の大学教育の特質は4点ある。①プログラム主義ではなく研究室教育であること。講座制が伝統として残っているが、アメリカ人からはこの形式は羨ましいと言われることもある。一般教育もアメリカではプログラム主義であったが、日本では教養部という組織体を作って対応した。これが後々問題になってくる。②担当教員の裁量が強いこと。授業内容や評価が教員によってバラバラである。属人主義であり、共通のものが作りにくい。日本の大学のキャンパスは綺麗だが、職員数はアメリカの大学の方が2〜3倍程度多い。③成績評価の基準が甘い。卒論で初めてインフォーマルな学術指導を受けることになる。④就活が3年生後半から始まるため、学生に対する負荷をかけることが困難である。
  • 改革の方向性として3つの答申がでた。「21世紀の大学像と今後の改革方策について-競争的環境の中で個性が輝く大学-」、「学士課程教育の構築に向けて」、「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ~」の3つであり、それぞれポイントとなるところがある。それと合わせて、政府や市場から大学や専門職団体への要求がある。センター試験も刷新される。入試は3段階に分かれており、高校も変わってくるだろう。
  • 90年代から学びの質が変化し、入学後にも勉強させようとしている。大学で学ぶ知識も変化している。高校3年生の12月に調査したところ、4割の者が家庭での学習時間が0時間であった。入学してから勉強させるようにしないと、ずっとそのままになってしまう。
  • アメリカと日本の大学を比べると、学生の学修時間が大きく異なる。アメリカは留年や退学も多く、GPAは奨学金の給付とリンクしている。日本の国立大学では人文社会科学系の学生の学修時間が総じて少なく、卒論によりかろうじて学修時間を確保している状況である。
  • 日本では大学教員の担当コマ数も多い。学生に聞くと、出席重視や中間試験を行う授業を経験した割合が多いが、学生が必要だと回答したことは授業の工夫であった。同じく学生に対する調査では、学問の基礎を教えてくれた授業は専門分野に限らず意味があったと回答されている。合わせて、学生も卒業生も企業人事担当者も、大学は基礎的能力の育成が大切だと回答している。
  • PISAのテストは基礎基本をやっている者が良い点を取れるという分析結果がある。基礎基本がわかれば、それを用いた応用も可能になる。

「主体的な学び」を考える -ICE ルーブリックを作成する-(近藤)

  • 主体的な学びという言葉は最近多く聞かれるが、主体的な学びとは何かということは明らかになっていない。なぜこのような主体的な学びという話が出てきたのか。それは、教育をしている者が教育活動の手応えなどに違和感を持ち始めたためと考える。現状では、理想的な学びとは何かを表現する手段がない。
  • 学習に関する研究は1950年代からは欧米で進められてきた。Bloom’s TaxonomyDeep and Surface Approaches to Learningなどが代表的なものである。このようなフレームワークを展開し授業を作ることが、今のFDにもつながっている。
  • 専門分野を学ぶということは、コンセプトを理解しものの見方を変えるということである。このように変化を及ぼすようなコンセプトをThreshold Conceptと言う。
  • 主体的な学びとは、学習者が知識を踏まえて展開することである。教員の役割は、学習者の展開する力を育成することである。
  • ICEモデルとは学習を考えるフレームワークであり、Idea(アイデア),Connect(つながり),Extensions(応用)で構成されている。また、3つの段階にはそれぞれ対応する学習者の状態を表す動詞が設定されている。IとCとEの間には順序性はなく、それぞれ行ったり来たりしながら自由に使えるフレームワークとなっている。
  • フレームワークにはいくつもの種類があり、それらを使いながら、知識を関連づけ応用していくことができるような活動を行うことが重要である。

(その2に続く)