セミナー「高大におけるカリキュラム改革を考える」に参加してきました。

E.FORUM教育研究セミナー「高大におけるカリキュラム改革を考える―探究力育成の視点から―」

 大学全入時代を迎えて高校と大学の教育接続が改めて問われている現在、高大においては様々なカリキュラム改革が進んでいます。高校、特にスーパーサイエンスハイスクール(SSH)やスーパーグローバルハイスクール(SGH)では探究的な学習が重視されています。一方、大学では、「グローバル人材」の養成が強調され、教育の質保証が問われています。質の高い教養や専門性と結びつくような探究力を高校と大学の双方で保障していくためには、どのようなカリキュラム改革を構想すれば良いのか、高校教員と大学教員が集い、考えたいと思います。

 京都大学大学院教育学研究科主催のセミナーに参加してきました。あまり広くない会場には、6人掛けテーブルに6人が座るほど人が詰めかけ、目算で200名程度の参加者が確認できました。高大接続答申が出た直後ということもあり、高校教員の参加者も多かったようです。私は高大接続にはそこまで深い興味があるわけではありませんが、立教大学の寺﨑先生がご講演されるということで参加しました。寺﨑先生は大学史研究の第一人者であり、ご講演は何度も伺っていますが、お話を聴くたびに新しい発見があります。今回もかなり興味深いお話であり、他の講演者と合わせ、参加して良かったと感じました。特に、現役の高校教員から現場レベルのお話が伺えたのは、なかなか新鮮でした。

 一部分だけですが、私の印象に残った発言を以下に記載します。いつものとおり、正確に発言を書き取った訳ではなく、内容は全て私の私見が加わっている可能性がある点に留意願います。なお、文中の強調表現は全て私の手によるものです。

開会挨拶(北野 京都大学教育・情報・評価担当理事、副学長)
  •  京都大学は10月から新執行部になったが、新学長は教育を重視するメッセージを出している。今回のセミナーに関連することでは、高大接続や入試改革、教養教育改革を行っている。
  •  高大接続について、これまでは大学全体としてうまくコーディネートできていなかったが、今後は大学全体でコーディネートしていくとともに、各教員が個別に取り組んでいることを励ます取組も行いたい。入試改革については、平成28年度から特色入試を行う。定員はごく少数であるが、やってみて結果を確認することでやり方等を考えていきたい。教養教育改革については、国際高等教育院を設置するとともに、英語での教育や外国人教員の雇用を推進している。現在は50名程度外国人教員を雇用している。留学生の確保のみならず日本人学生にとっても有益であるという認識。また、地域との協働については、COCプログラムの採択を通じ地域貢献や教育を一体として進めていく。
  •  大学を取り巻く環境は厳しいものがある。高大接続の答申が出たが、大学にとっても高校にとっても厳しいところがある。関係者はしっかり見守る必要がある。現場感覚の重視など基本のところは外さないようにやっていきたい。
基調講演「大学教育改革の前提-あふれる言葉、激震する構築、前のめりの改革実践のもとでかんがえる-」(寺﨑 東京大学名誉教授、立教学院本部調査役)
  •  本日のテーマに近い私のキャリアについて。東京大学の附属小中学校長を務めた時は、受験戦争や不登校生徒の増加などの背景があった。その後、立教大学では全学共通カリキュラムの作成に携わったが、その時はバブル崩壊後であり産業界が偏差値型の学生観から離れた提言を行った時代であった。その後、立教大学では本部調査役として、立教大学全体の教育を「一貫連携教育」として接続することを行った。一貫教育は学校段階のつなぎ目で生じる問題を重視するが、そうではなくプロセスを重要視した一貫連携教育を意識し、特に英語教育など、小学校から大学までつながる教育を実施している。
  •  大学が直面している課題として、1.溢れる言葉、2.激震する構築、3.前のめりの改革実践の3点がある。
  •  1.溢れる言葉について、中教審の答申では数多くのカタカナ言葉、教育改善の方策が明記されている。昔は、上から言われることを教授の自由に対する侵害であると主張する者も多くいたが、今は誰も何も言わない。大学に対してお願いしているような事項もあるが、大臣の諮問機関からこのようなことを言われることになった意味を考えてしまう。また、答申に沿ってこのような取組を行う人もいることも想定できるが、浮ついた教育にもなりかねない。今の教育改革に疑問を持っている。
  •  2.激震する教育について、教授会のあり方や国家からの資金の削減などが該当する。国立大学について言えば、法人化されて何が良かったかと聞かれてすぐに答えられる者はいないのではないかと思っている。
  •  3.前のめりな教育改革について、何かをしないと補助金が減る状況にある。こんなときこそ、大学の原点に立ち返るべきときである。その際、まずはカリキュラムの問題がある。「科目」とは英語でコースであり、サブジェクトとは異なる。コースとは学生がある目標に向かって歩んでいく道のことコースの目標が達せられた際に、次に選ぶべき道を示すものがコースナンバー、中教審答申で言うナンバリングである。カリキュラムはいくつものコースの塊あるいは連鎖であり、カリキュラムを考える際の原則は「広がり」(スコープ)と「順次」(シーケンス)であるこの2つの軸をまず考えれば良い。
  •  スコープとは、広い定義では、その時代の文化のどれを教育に取り入れるかということ。また、学生にどのような順序でコースを歩ませるかがシーケンスである。中教審では、ナンバリングが要求されているが、これは合理性がある。例えば、外国語の種類を何種類教えるか、必修は何語にするかがスコープ。何語から教えるか、どこから選択科目にするかがシーケンス。大学教員は、スコープはよく議論するが、シーケンスを考えることが非常に不得意であるそれは、カリキュラムを考える際に学生を真ん中に据えることが今までなかったからではないか科目をコースとして捉える見方がカリキュラムを考える際に重要である。
  •  大学の場合、教員の帰属感が複層的にならざるをえない。大学教員について、研究者だと思った場合は帰属先が専門領域・学会、教育者である自分を含めると学部であり、帰属が複数ある。帰属先が学部等一つだけである場合、自分の学部以外のことには興味を示さないため、教養教育のカリキュラムは非常に作りにくい立教大学の教員には、せめて帰属先を複数を持つように言った。帰属先問題は非常に重要と認識しており、国から学長のガバナンス等について言われる際に付け込まれる要因になる。大学教員が帰属感を複数化することで、大学改革の外圧に抵抗できることもある。
  •  大学の目標設定について、改革プログラムを文科省に申請すると建学の理念等との関係性が問われることになる。カリスマが作った大学や宗教系の大学は説明しやすいが、特に戦後できた地方国立大学はこの点を説明することは難しいと思う。そこで、各大学の歴史研究が重要になってくる。建学の理念とはその大学が歴史的に選んできた価値のことである。私のこれまでの所属先で一番建学の理念のなかったのは東京大学だと思っている。帝国大学になった際にやっと「殖産興業」という大学の理念が決まった。ただ、それは政府が作った理念である。理念を見つけ出す方法は正確な歴史研究である
  •  高大連携について、文科省や中教審でたくさん議論が行われているが、いろいろな問題が抜けているという印象。まず、制度論ばかりで教科に踏み込んだ考察がないことが指摘できる。例えば英語について、論点は様々あるが、一つの教科として考えると非常に難しい。高校まではコミュニカティブが中心だが、大学ではそれだけではなく読解力も大切である。その両方について、どのように対応していくのか重要な問題であり、このような高大の接続問題もあり、入試を変えようというのが中教審の方針であるという理解。ただ、数学については、高校までの学習と大学での学習が平地ではなく飛躍が必要であり、そのプロセスをどう受け取るか、どのように教諭と教員が連携すればよいのかが重要である。教科に関する考察がないのは危機的であり、単純に接続すれば良いというわけではない
  •  高校と大学で一貫して求められる能力で、かつ大学が高校での教育に強く望んでいることは、「書く力」である。学生はレポートを書いたことがないため、立教大学ではレポートの書き方をパンフレットして配布している。学生に聞くと高校までに書くことを教わっていないようであり、大学はそこから教えていかなければならい。高校の教諭の方には頑張っていただきたい。確かに、日本ではそのような流れがあり、戦前では感動と文章をどう結んだらよいかという綴方教育という教育手法があった。
  •  大学での探求力育成について、それほど簡単ではなくその獲得を保証できない。学生を動かすことはできるが、そのから意欲を感じることは容易ではない。消えないような燃え方を学生に植え付けさせることは難しい。主体的に学習するということはどのようなことか。学生たちを燃えさせ続けた際にわかったことは、学生には1.教員が教えようとしている言葉・数式・理論等の世界と2.限りなく多様な経験・体験・原体験・感受性等の世界があり、2つの世界の間には、前者は普遍性、後者は個別性という大きな差がある。日本の教育は、普遍性の世界を効率的に個別性の世界に移そうとしてきた結果、なるべく普遍性を重視することを目指すことになった。今は、個別性に立って普遍性を批判する力が求められている自分の感受性を活かしながら普遍性に疑問を呈すことが求められており、オリジナリティーはそこから生まれるのではないか
  •  日本は大学入学者のうち25歳以上の者の割合がOECD国中最低であり、これはいかに我々が若い者しか学生としてみていないかを表現している。それが成立しているのは学費の問題であるためだと思うが、アメリカのような学費が高くとも25歳以上の割合が高い国もあり、学費だけでは説明できない。日本の場合、科目等履修生という名称で対応している場合もあるが、高割合である各国はパートタイム学生と非パートタイム学生との処遇に差がないのではないか。また、社会的環境も整っているのであろう。日本においても、留学生だけではなく、このような属性の学生の受け入れも推進すべきではないか。立教大学での経験上、50歳以上の学生が示す学習意欲は非常に高い。
  •  学習意欲について、「探求」の前に「発見」が重要であるという認識。何が問題かを発見すること、問題があることを認識することが大切であり、学生は大抵問題認識ができない。最近の学生は操作することには長けているが、問題を発見することは嫌がる。
  •  グローバリゼーションについて、この言葉は経済学の用語であり、最初に使ったのはイタリアのローマクラブが作った「成長の限界」(1971年)である。言葉の背景が変化し、現在では市場が世界化したという意味で使用されている。溢れる言葉の中で溺れないようにする必要がある。
  •  教師の役割は非常に大きい。凡庸な教師はtells、よい教師はexplain、優れた教師はdemonstrates、偉大な教師はinspireする。偉大な教師は非常に重要であり、どんなカリキュラムを作っても偉大な教師がいないと達成は困難である。
  •  日本の伝統的教育文化をどのように変えていけば良いか。それは、学校・教師が正解を持っているという文化を変えることである。基本問題に手を入れる覚悟がないと高大連携は難しいのではないか。
「能力形成をめぐる高大での教育改革の動向」(松下 京都大学高等教育研究開発推進センター教授)
  •  「探求力育成」とは今の教育改革の動向を示している言葉であるという印象。「新しい能力」とは、90年代以降提唱されるようになった能力の総称であり、後期近代になって求められるようになった。これまでの生き方の定番が揺らいで、人生の局面を切り開いていかなければならなくなった時代であるため、新しい能力が生まれたと考える。新しい能力は対象範囲が広く、情意的側面や社会的側面など能力の中身が広い。また、大学入試など評価対象としても設定されており、教育への影響が大きいことも特徴である。新しい能力は、世界的にも広まっており、OECDのキーコンピテンシやPISAなどが代表的である。最近では、ATC21Sなどもよく引用される。日本の学士力も、このような世界の流れの中から生まれ出てきたものである。国家間で教育目標やカリキュラムを調整するチューニングプロジェクトが実施されている。
  •  日本の能力形成については、PISAが大きな影響力を持っており、2003年のPISAショックによる学力論と合わせて能力形成も語られてきた。それが昨今の高大接続で一つに繋がり、今後の学習指導要領の改正により、能力の明確化や評価が行われることになる。また、2007年の学校教育法の改正により学力の3要素が明らかになったこちもあり、資質・能力検討会での議論により、能力ベースのカリキュラム評価が本格的に導入されることになる。
  •  能力と人格の関係について言うと、「できること」と「行うこと」は別である能力とは手段的価値であり、人格はそれを制御する目的的価値である。適応と批判について言うと、現代社会へ適応する人間をつくることになるという批判もある。人材開発の用語としてコンピテンシーが発達しており、教育学的にどのように組み込むかという点は意識しないといけない。OECD-DeSeCoのキーコンピテンシーでは「省察性」として対応しているが、十分には対応できていない。
  •  評価が高校と大学でどのようにつながるかは、能力ベースか内容ベースかの問題になるが、まだ議論が不十分である。コンピテンスとはパフォーマンスと対になった用語であるが、能力はそれ自体測定できず、可視化して評価することが必要可視化の内容と評価の方法が問題となるコンピテンスが複合的になる場合、評価も困難になるため、どのように対応するかは大きな課題である。
「探究を支える文化―人文系の場合―」(稲垣 京都大学大学院教育学研究科教授)
  •  卒論を指導する際に感じることは、学生は自分の強みを活かしたテーマを設定することが多いが、うまくいく場合いかない場合それぞれある。思い入れが強く価値観が相対化できないことや通説や常識の上塗りになることもある。学生目線で研究するだけではいい卒論にはならない。ものの見方として社会学のノウハウを身につけることが必要。
  •  「まなび」型と「背のび」型の2つのタイプの探求がある。「まなび」型探求について、学ぶ側の都合に合わせるニュアンスがあるが、グローバル化やフラット化という社会的背景と対応した言葉であるという認識。選択の自由により創造性や独創生が生まれるということが期待されている。しかしこれだけが新しい時代を切り開くわけではない。選択の自由があってもその先に何があるかがわからない。
  •  「背のび」型探求とは、研究活動をベースにした探求であり、西田幾多郎の名物講義が例示できる。なぜわからなくとも惹きつけられるのか。難解であるからこそ学問への飛翔感があり、教員自身が悪戦苦闘しながら自分なりの哲学を考えているプロセスを見せ、学生と一体化できるというライブの魅力もあった。しかし、「背のび」型探求は飛翔感を与えるとともに、教員を神格化するなど自分自身の立ち位置を見失わせることにもつながる。また、千葉徳爾オリエンテーションでは、自身が問いを重ねることで参加者を民俗学的な視点を与えた。
  •  どちらの探求の型でも長所と短所がある。「まなび」型では、学習者のインセンティブが高まるが、学問的な探求が弱くなりがちである。理論なきリアリティになり、単なる常識の補強や官庁レポートと化してします。「背のび」型では、他者との競争に走ってしまい、リアリティーなき理論に陥る可能性がある。それぞれの欠点を最小化しつつ探求を進めていくためには、テーマに即した基本文献を読み込みアプローチを身につけていくこと、一人だけではなく様々なリアリティーを持った者と議論を行うこと、学問的リアリティーと日常的リアリティーを往還させていく土壌の育成が必要である。
中等教育における探究の指導」(松井 群馬県立中央中等教育学校教諭)
  •  「モチベーションを高めること」を大切にしている。そのため、生徒には、自分自身のビジョン・イメージを作ること、主体的に学習させること、成長を実感させることを行っている。特に、正課から課外への発展的な学習に取り組むことを意識している。教師の側としては、教えずに待つことも大切。
  •  「郊外の実習の際に3年生が1年生を引き連れる事で、将来の姿をイメージさせている。学習成果を発表する場をたくさん設けている。また、課題研究科目につなげるため、他のフィールドワーク科目などを設置している。
  •  現任校は進学校であり、前任校と同じようにはできない。そのため、課題研究を先立って行った。テーマは生徒個々人に考えさせている。また、現任校はSGHの指定校であり、総合学習や課外活動を通じて推進している。
  •  中学校との接続について、中学校1,2年生はかなりやっており、そこで探求心を意識させたい。高校では総合学習の時間を用い探究心を向上させたい。
「探究の作法と研究倫理」(中村 大阪大学全学教育推進機構准教授)
  •  STAP細胞の件について、一部報道にはあるかないかに固執している感があり、違和感があった。「探求」を考える際には、第3者が納得できる形、検証可能な形で提示することが重要である。学問においては、発表者ではなく、内容において評価されることが大切。無断引用の場合、大規模な引用であれば正確性は逆に信用できる結果であるが、他者が探求したことに対する敬意をないがしろにしている点が問題になる。
  •  不正だけではなく、不適切な行為という観点もある。不適切な行為により、得られた結果の意味が変化する場合がある。不適切な行為についても対応していくことが必要であり、責任ある研究活動を構築することが大切。適切な研究成果が得られるように、得られた研究成果が十分活用できるように、公正な研究作法を運用していくことになる。
パネルディスカッション
  • (寺﨑)コンピテンス評価とパフォーマンス評価の違いについて、可視化と評価の問題指摘は重要。大学入試の改革においては、評価基準の実態と構造の把握が大切になってくる。つまり、各大学の評価基準の違いが問われるようになってくるだろう。学問的リアリティーと日常的リアリティーの往還は全くそのとおり。初めて大学院を持ったときに、こちらが示したテーマではなく、学生がテーマを検討した際にはうまくいった。自分自身の実感と研究成果を往還していくことは大切である。
  • (松下)なんらかの能力を評価する際に、必ずパフォーマンスを経てのみしか評価できない。それがパフォーマンス評価である。パフォーマンス評価には2種類あり、パフォーマンスだけを評価するものとパフォーマンスのみではなくその裏にあるコンピテンスも評価するものである。大学入試での評価とは後者であるが、複雑で難しいことになる。
  • (松井)生徒が探求をしている際には教員自身にも探求するという意識が存在する。しかし、高校の教員には探求ができるのかという思いもある。大学教員など外部の者に専門性を委託しながら総合的な学習の時間を進めていく中で、高校の教員はどの部分を支援すれば良いのかということは悩みでもある。
  • (中村)評価の在り方をどのように考えるのかは難しい。評価の本質的な部分と制度設計とでは必ず齟齬が出てくる。どのように進めていけば良いのか。
  • (フロア)高校の教員は探求できるのかということは、教員個人が探求しているのかという点が重要であるという認識。普遍性と個別性、学問的リアリティーと日常性リアリティーの関係は、今後非常に重要になってくる。「あれかこれか」ではなく、「あれもこれも」という形で必要になってくるだろう。
  • (松下)評価の在り方については、研究だけではなく、教育も評価の在り方によってその活動が歪められる可能性がある。いろんな目で活動を見ることが大切。