50年前のアメリカ大学教育改革に思う 〜現代日本の大学事情と似ているのか〜

 たまに「日本の大学制度はアメリカの大学制度よりも◯十年遅れている」といった言説を聞くことがあります。たしかに、例えばIRについては、アメリカの高等教育機関においてIR組織が設置されるようになったのは1950~60年代であり、日米間の設置趣旨の違いはともかく、だいたい50年程度のタイムラグがありますね。ということは、その時代のアメリカの大学事情を振り返れば、もしかしたら現代の日本の大学改革にも当てはまるような解決策があるかもしれません。ということで、非常に安直な理由ではありますが、今回は昔のアメリカの大学改革事情を記した書籍の内容紹介です。

 読んだ書籍は、Dynamics of Academics Reform(J.B.Lon Hefferlin,1969)を翻訳した「大学教育改革のダイナミックス」(喜多村ら訳,玉川大学出版部,1987)です。この書籍を手に取ったのは、翻訳が喜多村先生であることやダイナミックスというタイトルに引かれたことであり、特に深い意味はありません、ただ、読み進めると、現代の日本の大学にも通じるような文脈がいくつもありました。以下、書籍中から一部引用しながら言及していきます。なお、同書で行われた調査は何らか改革が行われているかに着目したものであり、その改革が適切なものかという質的な面を考慮していないことに留意が必要です。

 あらゆる歴史を通じて、教育機関というものはつねにその時代の知的要求に適応不能におちいり、その結果急激な調整を行っては、そのショックに苦しんできたのである。(略)アメリカでは十九世紀を通じ、さらに二十世紀初頭に至って、リベラルアーツ・カレッジはようやくのこと科学の存在をしぶしぶみとめた。しかしその周囲にひたひたとおしよせていた産業主義や実利主義の方は無視したのである。つまり大学はフランシス・ベーコンは受け容れたものの、フランシス・ウェイランドに対しては受け容れ体制ができていなかったわけである。(P21)

 「時代の知的要求に適応不能におちいり、急激な調整を行っては、そのショックに苦しんできた」というのは、今の日本の大学とも重なる状態ですね。アメリカの大学であっても、必ずしもすぐに新しいことに順応してきたわけではないことがわかります。なお、文中に言及されているフランシス・ウェイランドとは、19世紀アメリカで教育改革を進めブラウン大学の学長を勤めたFrancis Wayland Parkerのことです。

 つまり大学は下からは受験生の学力で、上からは雇用者や大学院入試担当者の期待ではさまれているのである。(略)それゆえ多くの高等教育機関は、いわば一種の下請け産業というべき伝統の中で動いている。つまり大きな体制の一部としての断片的な仕事を独立して営んでいるにすぎないのであり、そこには独自の選択の余地などはほとんどないわけだ。高等教育機関は学生を受け入れ、世話をし、教育し、よい条件をつけたうえで次の段階へと送り出してやらなければならない。教育プログラムをこれまで受け入れられている原価をこえてまで修正したならば(略)危険を覚悟しなければならないだろう。(P33)

 大学を「就職予備校」と揶揄することはよく聞きますが、「下請け産業」とまでは聞いたことがありません。入り口や出口のニーズを無視した改革は危険だと言っているのでしょう。

 大学というものは一般に、外部の圧力や内部の分裂をふせぐための学問の自由や身分保障などの方策に加えて、一連の審査と承認のメカニズムを通して運営されている。こうした構造は、変革をことさらゆるやかに採用していくのに一役買っている。さらに大学は個々別々の単位に分割されており、このことは権限の分散化をつよめている。(略)要するに大学は、組織体が安定化へと志向するという通常の傾向性を享有しているばかりではなく、大学固有の教育という機能を防衛するために、通常よりもはるかに多くの拘束といくたの特殊な体質をかかえているのである。(P35)

 大学の組織としての特性について言及しています。このあたりは今とあまり変わりませんね。 

 つまり、脅威の存在を認識することが、改革を促すにあたっていかに重要化ということである。社会的な行動をかりたてるのは、危機そのものよりも、むしろ危機を意識することである。(略)脅威や変化の状況がおこる可能性に対する一般的な反応は、これを信じないことである(「あんな学生の言うことがあてになるものか。」)。脅威の存在を信じざるを得なくなった場合には、それを的はずれだとみなされやすい(「かれらはなぜ本当の問題をたたかないのだ。」)。そして、それが的はずれな予想ではないと認めざるを得なくなった時にも、そのような脅威や状況の変化は、たんなる一時的な現象とみなされやすい(「多分、まもなく終わるだろう。」)。手遅れになってはじめて、状況の変化が本拠地を直撃するのだ。それゆえ、組織体がいかに敏感に危険の可能性を察知するかが、変化に対する組織体の反応力を決定するのである。(P39)

 改革における危機や脅威を認識する重要性を指摘しています。改革は常に外からやってくる、ということでしょうか。文中にある言葉は、まるで市場から取り残された大学から発せられている言葉のように感じます。

 つまり、改革に必要な資源が存在するだけではなく、改革の唱道者がその資源の入手に成功しなければならないのだ。改革の唱道者達が、自己の使命を実現するに必要な資源を求めてたたかわす競争の中から、社会における特定のパターンの高等教育が生み出されてくるのであろう。(P64)

 高等教育の変革の源泉には次のような三つの条件があることが明らかである。すなわち、①改革のために資源が入手できること、②改革に関心をよせる改革唱道者が存在すること、③両者にとって大学の制度が開かれていることである。(P70)

 改革の先導者とそれへの資源投入の話が出ています。学長裁量経費がぱっと思いつきました。

 変革に対する抵抗が何らか特定の障害からもたらされるものではなく、むしろ大学全体に広がっているという考えは、教授よりも管理者側に若干多い。しかし、他者が非難するほどには自らは自己を非難しないという傾向は、いずれにも共通する傾向なのだ。すなわち管理者の眼からすれば、教授自身が考える以上に教授は不埒な存在であり、教授にしてみれば管理者の方が厄介者と映るのだ。(略)多分、どのようなタイプの機関に所属しようと、関係者は全部が全部、我こそが組織の救い主であり、組織の大義のために闘う闘志であり、組織の信用を守る守護神であると考えたがる。(略)大学社会にあっては、この自己中心主義の存在こそ、なぜ管理者と教授団との間にカリキュラムをめぐって大学に土着的な敵対関係が存在するのか、という問題の一端を説明するように思われる。(P117)

 これは重要な指摘だと感じます。結局、互いに厄介者扱いしているということでしょうか。コミュニケーション・コストを掛けて解決していくしかないのでしょうね。

 要するに、大学に完全な自治権をゆだねるべきだと主張する人びとは、既得権を与えられた教授団や管理者が、外部からの刺激や監督なしに進んで公共の利益に奉仕するはずだ、と信じている。しかしそれは、明らかにこれまでの歴史が保証する範囲を越えるものである。(略)理事をはじめとする他のいかなる集団も、それに影響を及ぼしかねないような大学が、自らそのカリキュラムを改革するとはとても考えられない。このような大学はむしろ改革に抵抗すると考えたほうがよさそうである。(略)逆に、管理を学外の組織体にゆだねさえすれば、必ず改革を継続的に実現できる、というような極論を主張するつもりは全くない。(P163)

 これは大学の自治に関連する視点だという認識です。前述のとおり、大学は非常に安定性を求める組織体です。そのため「何もなければ何もしない」という状態になることは容易に想像できます。

 すでに明らかなように、学外からの圧力や大学間のコミュニケーションは、大学教育改革のプロセスに重要な意味をもつものである。したがって、継続的な大学改革を維持できるかどうか否かは、大学と外部社会との境界線上に位置し、所属大学に対してマージナルな態度ー大学の中にいながら、大学に埋没しない第三者としての仲介的態度ーをとることのできる構成員の影響力いかんにかかっている。大学のマージナルな構成員というのは、大学の所属していながら、なおかつ彼の生計のすべてを、その大学に依存していない人びとのことである。ある人が、もし経済的にも、心理的にも所属大学に完全に依存しているとすれば、かれはもはや、大学に対してマージナルではありえない。かれは、むしろインサイダーなのである。大学のマージナルな構成員の典型的な例としては、理事、卒業生、客員講師、パトロンコンサルタント、臨時の管理者、非常勤講師、聴講生などがあげられる。(P173)

 ここは時代背景等が異なるために直接現代に当てはめることはできないと感じています。ただ、組織を行き来するような広い考えを持った教職員の影響により改革がもたらされるということは、今でもあり得るかなと思っています。

 多くの大学で継続的な改革をはばんでいるのは、一種の無力感ではないかと思われる。この無力感によって、かれらは、率先して事を始めることができないと感じている。(略)したがって、中央集権的に地位や予算を配分するような州立大学は、早急に社会の要請に応じることも、立派な教授陣も集めることもできないだろう。州政府が、のんびりと時間をかけて候補者を推薦し、順位をつけ、任命しているあいだに、他の大学が有能な教授を横取りしていまうからである。(略)このような中央集権的な大学とは対照的に、最も動的な大学は、その教職員や学生に対して、より大きな行動の自由を保障しているようだ。このような大学は、有能な教員と優秀な学生を選び出し、かれらに決定を一任するという方式を採用している。(P181)

 無力感をいかに克服するかは難しい問題です。ここでは、権限を委譲することにより、行動の自由を保障するという形をとることで、無力感を克服し動的になるようにしていることが説明されています。

 急速に変化する社会の管理形態としては、家父長制ではもはややっていけなくなっているのである。このような社会の知識や能力は、勤務年数の長短によって直接規定されるものではない。つまり、勤務年数にかわる別の基準が求められているのである。ある州立大学の教務担当副学長がいみじくも指摘したように、「ただ古いということ自体の中には、もはや魔力は存在しなくなった」のだ。(略)つねに動的な大学は、若手と古参とが交互に権限を分担することによって、相互に裨益しているように思われる。(P186)

 ここでも、権限を分担することが言われています。「権限の分担」というのは一つのキーワードでしょうか。 

 アメリカの社会も大学も、このような家父長制とはまさに正反対の方向に進みつつある。それは、同僚的という用語で表現してよいであろう。ここでいう同僚制というのは、対等な人びとの共同体を意味している。(略)つまり同僚制は、相互に対等な人びとのゆるやかな連合と個人主義との理想的な形の混合体となっている。(略)しかし大学によっては、集団としての同僚制が支配的な力を及ぼしている場合がある。同僚制の本来の目的であった個人主義や自主性を促進するどころか、教授団全員の承認なしには、個々の教員はなにひとつイニシアチブを発揮できなくなっているのである。(略)一般に同僚制機関の教授会メンバーは、自分たちを専門職だと心から信じこんでいる。それゆえに、管理者のイニシアチブを含めて外部からの影響は、ことごとく自治への侵害とみなし、反対する傾向がある。(略)教授団の大部分が伝統志向的であるとか、教員の質が低下しつつある場合には、大学の衰退を防止する手段は、もはら存在しないのである。(P189)

 同僚制つまり教授会の弊害について言及しています。学校教育法の改正にも通じる話ですね。「個人へ権限を分担」という形を取ろうとも、同僚制として集団の意思決定を経る中でなかなかうまく動けないということでしょうか。ここまで改革唱道者に対し資源と権限を分配するという方法が言及されてきましたが、同僚制はなかなかそれとは相容れない場合があるということでしょう。

 われわれの得た証拠から見る限り、最も改革しやすい大学というのは、周囲の環境にある多くの変革の源泉に対して開かれている大学、そしてこうした外部からの影響力に対して自由で寛大な組織体として圧力に対応できる大学である。このような組織に最も見られる要因は、おじ的特性であろう。(略)経験は与えるがしつけはしないこと、必要に応じて援助の手をさしのべる親類のごとき存在である。(P193)

 新しい概念として「おじ的特性」「おじ的機関」(avancular)を提唱しています。学内の構成員全てを改革の唱道者もしくは支援者と位置づけ、各者の能力に応じて地位が割り当てられ、またその専門的能力を以って大学改革の助言やコンサルタントを行うこととされています。ちょっとイメージがわきにくいですが、大学の発展に向け各構成員が自身の持つ能力を少しづつ持ち寄るという感じでしょうか。機関つまり大学本部等が構成員に対しおじ的になるというよりは、各構成員がおじ的になり他者に対し援助の手を差し伸べるということだと理解しました。

 飛び飛びで引用してきたため、ちょっと意味が通じにくいところがありました。本書は、大学教育改革を生み出す要因は何なのかを探っており、改革の質や結果がどうであったのかまでは踏み込んでいません。また、大学を教育機関としての面から捉えており、研究機関としての面には言及していないことにも留意が必要です。

 ただ、本書に書かれた内容は現代の日本の大学にも十分に通じる内容であったように感じます。特に、学長一人に権限と資源を集中させるのではなく、若手、古参など意欲ある個人に資源と権限を分配するということは、今後の大学経営の在り方としては十分にあり得るのかなと考えています。高等教育関係で読む書籍はどうしても出版年が新しいものになりがちですが、たまには古い書籍を読むことも必要ですね。