学長選考の混乱に思う 〜「参考」ではない意向投票とは〜

福教大学長選考で混乱 学内外委員、投票覆す [福岡県] - 西日本新聞

 11月に行われた福岡教育大(福岡県宗像市)の学長選考で、学内外の委員でつくる「学長選考会議」が教職員投票で得票1位となった教授を選ばず、現職を再任したことについて、教授会が「大学自治を踏みにじる」などと反発し、再審議を求める異例の事態となっていることが分かった。

 次期学長選考に関して、学長選考会議が構成員の意向投票結果と異なる候補者を選出したということで、福岡教育大学が揺れているようです。このような事案は、もはやこの時期の恒例行事に近い印象を受けます。

 先日公表された中央教育審議会大学分科会組織運営部会資料の審議結果まとめ(案)にも、国立大学の学長選考に関して言及があります。

(2)国立大学法人等における学長選考 

  • 国立大学法人公立大学法人については,学長は,「人格が高潔で,学識が優れ,かつ,大学における教育研究活動を適切かつ効果的に運営することができる能力を有する者」とされている 25 。すなわち,法人化までは教育研究に関する意思決定機関であった学長が,法人の経営についても一体的に責任を負うこととされたが,そのことによって,当然,学長の職務内容や,求められる資質・能力も変容している。 
  • 法律上も,学長選考の方法について,きめ細かく規定が設けられている。国立大学法人については,教育研究評議会に所属する学内委員と経営協議会に所属する学外委員が,それぞれ同数から構成される学長選考会議において学長を選考することとされており,学内及び学外の意見が,学長選考に適切に反映されるような仕組が設けられている。 
  • 法的にはこのような制度が設けられているにもかかわらず,一部の国立大学等では,その内部規則等において,法人化以前と同様に,実質的に教職員による意向投票の結果をそのまま学長選考に反映している場合も見られる。しかしながら,学内外から幅広く人格識見共に優れた人材を学長に登用しようとする法制度の趣旨からして,過度に学内の意見に偏るような選考方法は適切とは言えない。学長選考組織が,主体性をもって,意向投票の結果を自らの選考の参考の一つとして活用することはあり得る。例えば,学長選考組織が大学に求められる学長像にふさわしい候補者を数名に絞り込んだ上で,候補者のビジョンを学内に示し,支持が得られる人物であるかを確認するために実施するなどの手続を,内部規則等を変更して規定しておくこと等が考えられる。 重要なことは,意向投票の結果はあくまで参考の一つであり,学長選考組織がその権限と責任において学長を最終的に決定すべきということである。 
  • なお,学長選考組織の構成員には,地域関係者,卒業生,保護者等にも人材を求め,大学のステークホルダーが幅広く参画するような構成とすることが適当である。また,学長選考組織に現職の役員を入れることも行われているが,審議の公平性等の観点に十分に配慮することが必要であろう。 

 記事では「教職員の意向と違う結果を出すなら、きちんとした説明が必要」と書かれており、これは学長選考会議が構成員と向き合って説明してほしいところですが、「再審議」を求めるのは正しいのかという疑問はあります。記事中「選考過程に問題はない」と学長選考会議議長が語ったとおり、選考は規定等にのっとって実施されたのでしょう。

国立大学法人福岡教育大学学長選考等規程(学長選考会議制定 平成17年1月20日)

(学長候補者の決定)

第13条 学長選考会議は,第10条の規定による所信表明等を基に,第11条の意向投票の結果を参考にし,学長候補者を決定する。

 学長選考等規程は平成17年に制定された後7回程度改正が行われているようですが、その間第13条を問題にする者(つまり「参考」とは何なのか問う者)はいなかったのでしょうか。そうでなければ、決まった後に手続きが悪いと言うのは、あまり筋が良くない話だなと思っています。記事中、「係争中を除く三つの訴訟で「違法性は認められない」などとして原告敗訴が確定している」というのは、詳しく判決文を確認していませんが、恐らく手続きとしての正当性を認められたというのも一つあるでしょう。

 今回は意向投票との結果の相違が発生したけれども、今後の学長選考に向け、「学長とはどのような存在か、どのような役割を担い、どのように行動するのか」ということを学内や学長選考会議で話し合いながら、より良い学長選考を目指すというのが着地点かな、と思っています。

 さて、このような事態が発生するたび大変不思議かつ残念に思うのが、学長候補者がどのような大学にしたいかなどを語った所信内容が全く出てこずに、完全に「誰を選ぶか。手続きは自分の意に沿うものだったか。」という目線でしか語られないことです。候補者はそれぞれ大学を良くしようと考えたはずですし、どうしても断固としてそれに同意できないということは、それほど多くないのではないかと思います。せめて各論反対くらいでしょう。手続きが違法であると言い続けることにどれほど大学への大義があるのか、私にはわかりません。まして、例え意向聴取で投票した候補者が学長になったとしても、その施策には協力しないということもきっとあるでしょうし、このようなことを考えるたび、構成員にとって学長とはどのような存在なのかよくわからなくなってきます。東京大学名誉教授の天野郁夫先生は、その著書「大学改革の社会学」の中で、以下のとおり述べています。

(広島大学が所属教員に行ったアンケートの結果から)学長は単なる「行政者」であってもこまる。いちばん望ましいのは「調整者」型の学長だが、「リーダー」としての役割も必要だ。また「大学の顔」にもなってほしい。こうしたすべての期待を要求を満たしてくれる学長が、現実に存在するはずがない。あったとしても希有の例というほかはない。裏返せば日本の大学において学長は、一般の教員が確たるイメージや像をつくりあげることができないほどに存在感のない、影の薄い存在だということになる。(P264)

 また、記事中「投票率は87.15%」とありますが、投票に先立つ立会演説会等がどのような形で行われ、どれほどの人が参加したのは気になるところです。演説会等参加率が投票率よりも低かった場合、いったい投票した者は何を基準に投票したのでしょうか。所信内容がわかるのは演説会のみではないとは言え、そのような機会に参加せずに「人のみ」で判断したという可能性も否定できません。候補者側の発信の問題でもありますが、このように構成員が所信内容や将来の大学像ではなく別の要因(所属部局等)で以て投票する以上、その投票結果に対する法人化後の学長としての本質性が薄れるため、学長選考会議に「参考にする」とされても仕方ないと感じてしまいます。学長選考会議としても、学長に求めるものや望まれる行動などを明らかにし、候補者はそれに沿った所信発信を行うことが必要でしょう。

 国立大学が法人化されて以降、各大学は1,2回、多ければ3回程度学長選考を経たはずです。逆に言えば、まだその程度しか経験がありません。数年に一度、長ければ6年に一度しか行われないため、知見が集積されにくいとも考えられます。恐らく鍵になるのは、「学長選考会議が発信する学長のコンピテンシー」と「候補者と構成員との対話」ではないかと思っています。学長のコンピテンシーについては別の機会に触れるとして、従来の立会演説会等のみではない新たな対話の形を設定することは、より学長候補者と構成員との相互理解を促すとともに学長就任後のリーダーシップの発揮にもつながるのではないでしょうか。

 問題の根本は、国立大学法人法で学長と理事長を同一に扱っている点にあります。この点はなかなか変えにくいところですね。もし大胆に考えるならば、学長選考三回につき一回は、他大学の学長経験者を学長に充てるというルールもありなのかもしれないな、と妄想しています。